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蛙は昔から、日本人にとって身近な生き物でした。
 
 
そういえば、子供の頃、田植えが終わった田んぼに小さい蛙がいたのを見たような気が……。
 
 
私は両生類や爬虫類が苦手なので、見つけたら一目散に逃げ出します。
 
 
でも、蛙を題材にした俳句は、自分を投影したり愛情を表したりと、親近感を持つものも多いですね。
 
 
蛙は「春の季語」ですが、雨蛙や青蛙は「夏の季語」なんですよ。
 
 
蛙をよく見かける梅雨の時期は、夏になります。

 
 

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蛙は春の季語・雨蛙と青蛙は夏の季語

 

 
蛙は身近な生き物なので、昔からよく俳句のテーマに使われます。
 
 
蛙が季語の場合、春の季語で春の俳句になりますが、梅雨以降の蛙の俳句は夏の俳句になります。
 
 
蛙→春の季語
雨蛙・青蛙→夏の季語

 
 
雨蛙の俳句でも、苗代、五月雨、蕗(ふき)、若竹など、他の言葉が季語の場合もあります。
 
 
また、秋の暮など「秋」という言葉が入っているとそれが季語となり、「秋の俳句」になりますよ。

 
 

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超有名な蛙の俳句

 

 
蛙の俳句といえばコレというほど、よく知られている俳句があります。
 
 
まずは、私の大好きな松尾芭蕉の俳句を…
 
 
古池や 蛙とび込む 水の音
 
 
蛙は「かわず」と読みますね。昔の呼び方なのに、ほとんどの人が読めるという有名な俳句です。
 
 
しーんと静まり返った静寂とそれを破る「蛙」のなんともいえない「寂び」の雰囲気が素敵です。
 
 
もう一句は、子供に大人気の小林一茶の俳句
 
 
やせ蛙 まけるな一茶 これにあり
 
 
やせっぽっちの蛙を応援する熱い思いが、ダイレクトに伝わりますね。

 
 

江戸時代の俳諧師の俳句25個

 
 
江戸の三大俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)、与謝蕪村(よさぶそん)、小林一茶(こばやしいっさ)の俳句をご紹介します。
 
江戸時代、元禄期にはたくさんの俳諧師(俳人)が登場しました。その中でも、ひときわ輝いていたカリスマ俳諧師が松尾芭蕉です!
 
そして、与謝蕪村と小林一茶は、それからしばらく後に花開いた俳諧師でした。

 
 

(1)松尾芭蕉の蛙の俳句

 

 
松尾芭蕉(まつおばしょう)は後世「俳聖」と呼ばれる俳句の巨匠です。「芭蕉」の本名は、「松尾宗房(むねふさ)」といいました。
 
伊賀国(現在の三重県)で無足人と呼ばれた郷士の農家・松尾与左衛門の次男として生まれ、2歳年上の藤堂良忠に仕えました。
 
ところが、藤堂良忠が24歳の若さで亡くなり、藤堂良忠を主君として、また文学仲間としてとても敬愛していた芭蕉は、その死に大きなショックを受け、武士の身分を捨てて江戸へ出ました。
 
そして、武士や商人に俳句を教えながら、俳諧師として生きる道を選んだのです。
 
芭蕉の詳しいプロフィール・年表は⇒★こちらの記事です♪
 
 
古池や 蛙とびこむ 水の音
 
哀れさは 鳶の巢になく 蛙哉
 
蛙子は 目すり鱠を なく音哉

 
 

(2)与謝蕪村の蛙の俳句

 

 
与謝蕪村(よさぶそん)は俳諧師だっただけでなく「俳画」の創始者で、画家としても活動していました。そのせいか、写実的で絵画的な発句を得意としたのです。
 
蕪村の俳句は、情景が目に浮かぶような感じがします。
 
京都の島原の料亭「角屋(すみや)」で蕪村の絵(俳画ではなく梅の大作)を見かけましたが、のびのびと枝をはった梅が見事でしたよ。
 
 
春雨や 蛙の腹は まだぬれず
 
泳ぐ時 よるべなきさまの 蛙かな
 
連歌して もどる夜鳥羽の 蛙哉

 
 

(3)小林一茶の蛙の俳句

 

 
小林一茶(こばやしいっさ)は、江戸時代後期に、長野県の農家の長男として生まれました。一茶は継母や異母弟と折り合いが悪く、15歳で江戸へ奉公に出ました。
 
25歳のころ俳諧を学び始め、39歳のとき、病に倒れた父の看病で一度信濃に戻りますが、父はそのまま他界しました。
 
50を過ぎてから数回結婚しますが、子供のほとんどは病気などで亡くなってしまいました。 江戸での暮らしも、貧しかったようです。
 
「おらが春」、「一茶発句集」という俳句文集を残しましたよ。一茶の作品は小さなものに対する優しさがにじみ出る、情のあるものが多いです。
 
 
やせ蛙 負けるな一茶 これにあり
 
梢から はやす蛙や をどり花
 
油火の うつくしき夜や なく蛙
 
ゆうぜんと して山を見る 蛙哉
 
おれとし て白眼(にらみ)くらする 蛙哉
 
浅草の 不二を踏へて なく蛙
 
青梅に 手をかけて寝る 蛙哉
 
うの花や 蛙葬る 明り先
 
なく蛙 溝のなの花 咲にけり
 
むき~に 蛙のいとこ はとこ哉
 
小使の 滝を見せうぞ 鳴蛙
 
山吹や 先御先へと とぶ蛙
 
御地蔵の 手に居へ給 ふ蛙かな
 
人並に 蛙もはやす 山火哉
 
人来たら 蛙となれよ 冷し瓜
 
片ヒザは 月夜也けり 夕蛙
 
草蔭に ぶつくさぬかす 蛙哉
 
菜の花に かこち顔なる 蛙哉
 
蕗の葉に 片足かけて 鳴蛙

 
 

近代以降の俳人の蛙の俳句30個

 
明治時代以降の有名な俳人の桜の俳句を、合わせて30個ご紹介します♪
 

(1)正岡子規の蛙の俳句

 

 
正岡子規(まさおかしき)は、近代俳句・短歌の祖と呼ばれる明治時代の俳人です。
 
なぜそう呼ばれるのかというと、江戸時代まで俳諧と呼ばれていたものを「俳句」という名称にし、平安時代に失われていた和歌とは別の「短歌」という言葉を復活させたからです。
 
それについては、こちらの記事でくわしくお伝えしています。
   ↓
⇒近代俳句・短歌の祖・正岡子規とは?
 
これから先にご紹介するホトトギス派の俳人は、ほとんどが高浜虚子の弟子でした。
 
 
その高浜虚子の師匠が正岡子規です。
 
それだけ、近代の俳句や短歌に与えた影響の大きい人だということなのです。
 
 
名所に 住んでつたなき 蛙哉
 
蓮の葉に うまくのつたる 蛙哉
 
雪院の 月に蛙 を聞く夜哉
 
蛙鳴く 井手の玉川 春深し
 
菜の花や 昼も蛙の 鳴く処
 
泥すみて 影の動かぬ 蛙かな
 
飛びこんで 泥に隠れる 蛙かな
 
春もはや 蛙鳴くなり 手水鉢
 
蛙皆 うたふ水口 まつりかな
 
逃げざまに 足つかまれし 蛙哉

 
 
ここから下の俳句は、雨蛙・青蛙が季語の「夏の俳句」です。
  ↓
千年の 松をかかへて 雨蛙
 
園茂み 傘に飛びつく 青蛙
 
梅ヶ枝に しかみつきけり 雨蛙
 
五月雨や 畳に上る 青蛙

(季語は五月雨・夏)
 
苗代や 月をおさえてなく蛙
(季語は稲代・夏)

 
 

(2)水原秋櫻子の蛙の俳句

 

 
水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)は名前に「秋桜(コスモス)」が入って美しいですが、本名は水原豊という男性の俳人です。
 
高浜虚子に俳句を学んでいましたが、後に離反しました。
 
彼はホトトギス派の代表といわれた「ホトトギス四S(シイエス)」の1人です。「ホトトギス四S」は、水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十の4人を指しますよ。
 
本業は産婦人科医で、実家が皇室御用達の産科だったたため、秋櫻子もたくさんの皇族の赤ちゃんをとりあげたそうです。
 
 
蛙田の 暮るゝ遅さよ 雨のあと
 
十月の 風雨明けゆく 雨蛙
 
午後の日に 暈(かさ)描かむと 雨蛙

 
 

(3)山口青邨の蛙の俳句

 

 
山口青邨(やまぐちせいそん)は岩手県出身の俳人で、本名を吉朗といいます。
 
本職は鉱山博士でした。俳句の師匠は高浜虚子です。
 
 
けたけたと 三老人に 蛙鳴く
 
子供等に 夜が来れり 遠蛙
 
人を信じ 蛙の歌を 聞きゐたり
 
われをひとり ここにおきけり 雨蛙
 
ある時は 金粉にまみれ 雨蛙
 
青蛙 金のよそほひ わが庭に
 
青蛙 呼び陽明門に 雨が降る

 
 

(4)飯田蛇笏の蛙の俳句

 

 
飯田蛇笏(いいだだこつ)は山梨県出身で、本名は飯田武治といいます。同じく俳人の飯田龍太は蛇笏の息子ですよ。
 
 
夜の雲に ひびきて小田の 蛙かな
 
山祭 すみたる夜半の 初蛙
 
草深き 築地の雨や 蛙とぶ

 
 

(5)日野草城の蛙の俳句

 

 
日野草城(ひのそうじょう)は東京出身の俳人で、本名は克修(よしのぶ)、ホトトギスで俳句を学びました。
 
 
俳句雑誌にフィクションの新婚旅行の俳句を10句載せて師匠の高浜虚子に激怒され、「ホトトギス」を除名されました。
 
 
当時の俳句は、フィクションやエロティシズムの句はダメと厳しかったようです。
 
でも、虚子とは晩年に和解できたそうですよ。
 
 
すべて夏の季語「青蛙」の俳句です。
   ↓
青蛙 ちま~とゐる 三五匹
 
いとしさに 堪へねば捉ふ 青蛙
 
いとしさに 見つゝし飽かね 青蛙
 
青蛙 乗りゐし如露を はづしけり
 
青蛙 大和の国に 獲て来つる

 
 

(6)高野素十の蛙の俳句

 

 
高野 素十(たかのすじゅう)は、茨城県出身の俳人で医師でした。
 
 
高浜虚子に師事し、虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践した人です。「ホトトギスの四S」の1人と称されました。
 
 
季語は雨蛙と青蛙、夏の俳句です。
  ↓
或る時は 雨蛙なき 雨来る
 
掛稲より ひたと落ちしは 青蛙

 
 
 
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