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「桜」をテーマにした俳句を75句集めました。
 
多くの日本人にとって「桜」は特別な思い出のある花です。
 
そんな桜にまつわるあなたの思いやシチュエーションを、俳句に残すのはいかがでしょう?
 
最初か最後の5文字を「桜」にまつわる語にすると、後の言葉を決めやすいですよ。

 

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「桜」の季語いろいろ

 

 
「桜」に関係する季語は、美しく華やかな印象のものが多いです。
 
よく使われる季語の代表をご紹介します。
    ↓
紅梅・白梅・黄梅
桜・初桜
朝桜・夕桜
夜桜・遅桜
山桜・八重桜
枝垂桜(しだれざくら)
彼岸桜(ひがんざくら)
左近の桜(さこんのさくら)

 
平安中期以降、「花」といえば「桜」を指すことが多くなりました。
 
こちらの季語の「花」は「桜」のことで「春の季語」となりますよ。
 ↓
春の花・花の香
花の雲・花の都
花の露・花便り
花の色・花埃

 
他にもいろいろあります。

 
 

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江戸時代の俳諧師の俳句25個

 
 
江戸の三大俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)、与謝蕪村(よさぶそん)、小林一茶(こばやしいっさ)の俳句をご紹介します。
 
江戸時代、元禄期にはたくさんの俳諧師(俳人)が登場しました。その中でも、ひときわ輝いていたカリスマ俳諧師が松尾芭蕉です!
 
そして、与謝蕪村と小林一茶は、それからしばらく後に花開いた俳諧師でした。

 
 

(1)松尾芭蕉の「桜」の俳句

 

 
松尾芭蕉(まつおばしょう)は後世「俳聖」と呼ばれる俳句の巨匠です。「芭蕉」の本名は、「松尾宗房(むねふさ)」といいました。
 
伊賀国(現在の三重県)で無足人と呼ばれた郷士の農家・松尾与左衛門の次男として生まれ、2歳年上の藤堂良忠に仕えました。
 
ところが、藤堂良忠が24歳の若さで亡くなり、藤堂良忠を主君として、また文学仲間としてとても敬愛していた芭蕉は、その死に大きなショックを受け、武士の身分を捨てて江戸へ出ました。
 
そして、武士や商人に俳句を教えながら、俳諧師として生きる道を選んだのです。
 
芭蕉の詳しいプロフィール・年表は⇒★こちらの記事です♪
 
 
さまざまの こと思ひ出す 桜かな
 
扇にて 酒くむかげや ちる櫻
 
初桜 折しも今日は よき日なり
 
紙ぎぬの ぬるともをらん 雨の花  
 
よし野にて 桜見せふぞ 檜の木笠 
 
さびしさや 華のあたりの あすならふ      
 
花の雲 鐘は上野か 浅草か
 
初桜 折しもけふは 能日(よきひ)なり

 
 

(2)与謝蕪村の「桜」の俳句

 

 
与謝蕪村(よさぶそん)は俳諧師だっただけでなく「俳画」の創始者で、画家としても活動していました。そのせいか、写実的で絵画的な発句を得意としたのです。
 
蕪村の俳句は、情景が目に浮かぶような感じがします。
 
京都の島原の料亭「角屋(すみや)」で蕪村の絵(俳画ではなく梅の大作)を見かけましたが、のびのびと枝をはった梅が見事でしたよ。
 
 
行く春や 白き花見ゆ 垣の隙
 
さくら狩り 美人の腹や 減却す 
 
花ちりて 身は下やみや ひの木笠 
 
ゆき暮て 雨もる宿や いとざくら
 
さくら一木 春に背ける けはひかな 蕪村
 
ちるさくら 落るは花の ゆふべかな
 
嵯峩ひと日 閑院様の さくらかな
 
初ざくら 其きさらぎの 八日かな
 
旅人の 鼻まだ寒し 初ざくら

 
 

(3)小林一茶の「桜」の俳句

 

 
小林一茶(こばやしいっさ)は、江戸時代後期に、長野県の農家の長男として生まれました。一茶は継母や異母弟と折り合いが悪く、15歳で江戸へ奉公に出ました。
 
25歳のころ俳諧を学び始め、39歳のとき、病に倒れた父の看病で一度信濃に戻りますが、父はそのまま他界しました。
 
50を過ぎてから数回結婚しますが、子供のほとんどは病気などで亡くなってしまいました。 江戸での暮らしも、貧しかったようです。
 
「おらが春」、「一茶発句集」という俳句文集を残しましたよ。一茶の作品は小さなものに対する優しさがにじみ出る、情のあるものが多いです。
 
 
桜花 何が不足で ちりいそぐ
 
見かぎりし 故郷の山の 桜かな
 
あの鐘の 上野に似たり 花の雲
 
鼻先の 上野の花も 過にけり
 
夕桜 家ある人は とくかへる
 
家根をはく人の立けり夕桜
 
死下手と 又も見られん 桜花
 
死支度 致せ致せと 桜かな

 
 

近代以降の俳人の「桜」の俳句40個

 
明治時代以降の有名な俳人の桜の俳句を、合わせて40個ご紹介します♪
 

(1)正岡子規の「桜」の俳句

 

 
正岡子規(まさおかしき)は、近代俳句・短歌の祖と呼ばれる明治時代の俳人です。なぜそう呼ばれるのかというと、江戸時代まで俳諧と呼ばれていたものを「俳句」という名称にし、平安時代に失われていた和歌とは別の「短歌」という言葉を復活させたからです。
 
それについては、こちらの記事でくわしくお伝えしています。
   ↓
⇒近代俳句・短歌の祖・正岡子規とは?
 
これから先にご紹介するホトトギス派の俳人は、ほとんどが高浜虚子の弟子でした。
 
 
その高浜虚子の師匠が正岡子規です。
 
それだけ、近代の俳句や短歌に与えた影響の大きい人だということなのです。
 
 
しんとして 露をこぼすや 朝桜
 
観音の 大悲の桜 咲きにけり
 
吉原の 朧夜桜 露もなし
 
吉原や 雨の夜桜 蛇目傘
 
更くる夜を 静まる里の 桜哉
 
清水や 桜の上の 鉄燈籠
 
雪と見る 桜の上や 月一つ
 
九時の 鐘に茶店を 鎖す桜かな
 
雪と見る 桜の上や 月一つ
 
大門や 夜桜深く 灯ともれり
 
夜桜の 中に火ともす 小家哉
 
夜桜に こもる茶店の 煙かな
 
夜桜や 人静まりて 雨の音
 
夜桜や 辻燈籠の 片うつり
 
夜桜や 蒔絵に似たる 三日の月
 
夜桜や 松を境に 花明り
 
夜桜や 上野を通る 戻り道

 
 

(2)水原秋櫻子の「桜」の俳句

 

 
水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)は名前に「秋桜(コスモス)」が入って美しいですが、本名は水原豊という男性の俳人です。
 
高浜虚子に俳句を学んでいましたが、後に離反しました。
 
彼はホトトギス派の代表といわれた「ホトトギス四S(シイエス)」の1人です。「ホトトギス四S」は、水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十の4人を指しますよ。
 
本業は産婦人科医で、実家が皇室御用達の産科だったたため、秋櫻子もたくさんの皇族の赤ちゃんをとりあげたそうです。
 
 
朝桜 揺らぎ天龍 ながれたり
 
夜桜の 雨夜咲き満ち たわゝなり
 
夜櫻や 高尾を照す 月くらき
 
夜櫻や 城陥りて 四百年
 
夜櫻や 仙丈ケ岳に ひかる雪
 
夜櫻や 疲れて知らぬ 町ゆけば

 
 

(3)山口誓子の「桜」の俳句

 

 
山口誓子(やまぐちせいし)は京都の俳人で、本名は山口新比古(ちかひこ)という男性です。
 
先にのべた「ホトトギス四S(シイエス)」の1人でしたが、後に秋櫻子についてホトトギス派を離脱しました。
 
 
八重桜 日輪すこし あつきかな
 
桜咲く 前より紅気 立ちこめて
 
夜桜や 汽車の白煙 ふんだんに
 
工笛が 一散に 去る夜の桜
 
夜桜や 港の船の 見ゆる園
 
雪洞(ぼんぼり)は 仰向きさくら 俯向ける

 
 

(4)高野素十の「桜」の俳句

 

 
高野素十(たかのすじゅう)は茨城県出身の俳人で、本業は医師でした。
 
東京帝国大学医学部在学中に先輩だった同じく医師の水原秋櫻子に出会い、秋櫻子のすすめで句作を始めました。
 
彼も「ホトトギス四S(シイエス)」の1人です。
 
素朴な俳句が多いので、句作の参考になりますよ。
 
 
夜桜の 一枝長き 水の上
 
夜櫻や こゝより見えぬ 東山
 
夜櫻や 篝の煙 ほそ~と

 
 

(5)山口青邨の「桜」の俳句

 

 
山口青邨(やまぐちせいそん)は岩手県出身の俳人で、本名を吉朗といいます。
 
本職は鉱山博士でした。俳句の師匠は高浜虚子です。
 
 
いろがみを 貼りたる富士ぞ 夕桜
 
八重桜 そちこちの灯に 明るけれ
 
夜桜や 十本ばかり 雪洞(ぼんぼり)を

 
 

(6)中村草田男の「桜」の俳句

 

 
中村 草田男(なかむ くさたお)は中国アモイ出身の俳人で。本名は清一郎(せいいちろう)といいました。
 
東京帝国大学国文科を卒業し、高浜虚子に師事しました。
 
彼はニーチェなどの西洋思想の影響を受けて生活や人間性に根ざした句を探求したため、「人間探求派」と呼ばれます。
 
「萬緑」を創刊した人です。
 
 
夜桜や 月の紋章 月の中
 
産月近づく 夜桜に 櫂の音近づく
 
夜桜や そのかみ父母へ 帰りし道
 
夜桜や 手頃荷振りて 人の母
 
夜桜や 星数透くは 山桜

 
 

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