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春と秋にある「彼岸」
 
 
なんとなく仏教由来の年間行事としてとらえている方が多いと思います。
 
 
彼岸は此岸(しがん)と対をなすものでもありますね。
 
 
仏教では太陽が真東からのぼり真西に沈む特別な日、春分の日と秋分の日に、私たちの生きるこの世界(此岸)と、故人の世界(彼岸)が最も近くり、思いが通じやすくなる日だと信じられてきました。
 
 
お彼岸にお墓参りをするのは、そういう意味があったのですね。
 
 
今回は「春の彼岸」を詠んだ俳句を集めました。
 
 
句作の参考にどうぞ。。。

 
 

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(1)正岡子規の「彼岸」の俳句

 

 
近現代俳句の祖・正岡子規は生涯にたくさん俳句や短歌を残しています。
 
子規についてはこちらを⇒正岡子規と5つの有名俳句
 
 
草餅を 売り尽したる 彼岸かな
 
紅梅に 中日過し 彼岸哉
 
うき人よ 彼岸参りの 薄化粧
 
世の中を 笑ふてくらす 彼岸哉
 
人について 行くや彼岸の 無量寺へ
 
毎年よ 彼岸の入に 寒いのは
 
山門に 鼠のはしる 彼岸かな
 
彼岸には 死れける往生 疑ひなし
 
彼岸過ぎて 草花の種 貰ひけり
 
手に握る 彼岸の小銭 こぼしけり
 
旅人の ついでに参る 彼岸哉
 
昼中の 彼岸の月や 杉木立

 

(2)高浜虚子の「彼岸」の俳句

 

 
高浜虚子は愛媛県出身ですが、長く神奈川県鎌倉市で暮らした俳人です。
 
 
柳原極堂が創刊した俳誌「ホトトギス」を引き継いで、俳句だけでなく和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として発展させました。夏目漱石など小説家からも寄稿をうけています。
 
 
彼岸より 庭木動かし 夏に入る
 
山吹の 帰花見る 彼岸かな
 
手に持ちて 線香賣りぬ 彼岸道
 
長谷寺に 法鼓轟く 彼岸かな

 

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(3)山口青邨の「彼岸」の俳句

 

 
山口青邨(やまぐちせいそん)は岩手県出身の俳人で、本名を吉朗といいます。
 
本職は鉱山博士でした。俳句の師匠は高浜虚子です。
 
 
わがことの 多し彼岸の 鐘が鳴る
 
五寺六寺 駈けづり参る 末彼岸
 
一つ二つ 蜻蛉とべり 彼岸過
 
卒寿われ 母に彼岸の 燭ともす
 
彼岸過人 のコートの レモンいろ
 
顔も忘れ 彼岸の母を 香煙に
 
黄にヘりどり 彼岸の雲と 思はるる

 

(4)高野素十の「彼岸」の俳句

 

 
高野素十は茨城県出身の俳人で、本業は医師でした。
 
東京帝国大学医学部在学中に先輩だった同じく医師の水原秋櫻子に出会い、秋櫻子のすすめで句作を始めました。
 
「ホトトギス四S(シイエス)」の1人です。
 
 
大寺の 彼岸の明くる 御経かな
 
大根の 種子の売るるも 彼岸まで

 

(5)飯田蛇笏の「彼岸」の俳句

 

 
飯田蛇笏(だこつ)は山梨県出身の俳人です。本は武治(たけはる)、別号は山廬(さんろ)です。
 
高浜虚子に師事し山梨の山村で暮らしながらも格調の高い句を作り続け、大正時代の「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍しました。
 
俳誌「雲母」を主宰しています。山梨県出身で、同じく俳人の飯田龍太は蛇笏の息子です。
 
 
道中の 香煙に会ふ 春彼岸
 
ぐろ野の 日に尼つるる 彼岸かな
 
くにはらの 水縦横に 彼岸鐘
 
尼の数珠を 犬もくはへし 彼岸かな
 
山寺の 扉に雲あそぶ 彼岸かな
 
彼岸雨 詣でし墓を 傘の内
 
雲に古る 扉の花鳥 彼岸寺

 

(6)日野草城の「彼岸」の俳句

 

 
日野草城(ひのそうじょう)は東京出身の俳人で、本名は克修(よしのぶ)、ホトトギスで俳句を学びました。
 
俳句雑誌にフィクションの新婚旅行の俳句を10句載せて師匠の高浜虚子に激怒され、「ホトトギス」を除名されました。
 
当時の俳句は、フィクションやエロティシズムの句はダメと厳しかったのです。でも、虚子とは、晩年に和解できたようですよ。
 
 
お彼岸 が晴れてうれしや 南婆さ
 
花ちらほら 鳥も獣も 彼岸かな

 

(7)中村草田男の「彼岸」の俳句

 

 
中村 草田男(なかむらくさたお)は中国アモイ出身の俳人で。本名は清一郎(せいいちろう)といいました。
 
東京帝国大学国文科を卒業し、高浜虚子に師事しました。
 
彼はニーチェなどの西洋思想の影響を受けて生活や人間性に根ざした句を探求したため、「人間探求派」と呼ばれます。
 
「萬緑」を創刊した人です。
 
 
円く厚く 平ら彼岸の 焼饅頭
 
彼岸の雀よ 他界想はで 他界せしは
 
雲海の 彼岸の富士や 今日あけつつ

 

(8)大野林火の「彼岸」の俳句

 

 
大野林火は神奈川県生まれの俳人です。本名は正(まさし)。東京帝国大学経済学部卒で臼田亜浪に師事し、俳誌「石楠」に俳句や評論を発表しました。
 
抒情的な作風の俳句を多く残し、俳誌『浜』を創刊したり後進の指導にあたる活躍をしました。
 
1953年には俳人協会会長に就任しています。
 
 
山街道 彼岸詣を 通すのみ
 
彼岸鐘 目高輪になり 輪の光り
 
彼岸鐘 草木聞けり 鳥聞けり

 

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