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3月3日は、女の子の節句「ひな祭り」です。
 
この日は女の子のいる家は雛人形を飾り、魔除けの「桃」を飾ることから「桃の節句」とも呼ばれます。
 
だから「ひな祭り」のテーマカラーは桃色!
 
あたたかくかわいらしいイメージですね。春めくこの時期にぴったりです。
 
このひな祭り、もとは古代の5つの節供の1つ、「上巳(じょうし)の節供」でした。
 
平安時代、「紙」で作った紙雛(人のけがれを移した人形)を川に流す「流し雛」が行われました。これが次第に家に飾る「ひな人形」に代わり、江戸時代(元禄期)に庶民にも広がり祝われるようになったといわれます。
 
今も「流し雛」の風習が残る地方もありますよ。
 
今回は、そんなひな祭りをテーマにした有名な俳句をご紹介します。

 
 

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「ひな祭り」の季語いろいろ

 

 
まずは「ひな祭り」に関係する季語をご紹介します。
 
女の子の節句らしいかわいらしい華やかな印象のものが多いですよ。
    ↓
雛・ひいな・雛人形
立雛・内裏雛・雛段
雛飾り・雛道具
雛屏風・雛段・雛箱
雛の膳・雛の酒
初雛・京雛・紙雛
官女雛・五人囃
変り雛・雛椀
雛の燭・雛の宴
雛の宿・雛納め

 
 

江戸時代の俳諧師の俳句10個

 
江戸の三大俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)、与謝蕪村(よさぶそん)、小林一茶(こばやしいっさ)の俳句をご紹介します。
 
江戸時代、元禄期にはたくさんの俳諧師(俳人)が登場しました。その中でも、ひときわ輝いていたカリスマ俳諧師が松尾芭蕉です!
 
そして、与謝蕪村と小林一茶は、それからしばらく後に花開いた俳諧師でした。

 
 

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(1)松尾芭蕉のひな祭りの俳句

 

 
松尾芭蕉(まつおばしょう)は後世「俳聖」と呼ばれる俳句の巨匠です。「芭蕉」の本名は、「松尾宗房(むねふさ)」といいました。
 
 
草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家
 
内裏雛 人形天皇の 御宇とかや
 
草の戸も住み替はる世ぞ雛の家 芭蕉

 

(2)与謝蕪村のひな祭りの俳句

 

 
与謝蕪村(よさぶそん)は俳諧師だっただけでなく「俳画」の創始者で、画家としても活動していました。そのせいか、写実的で絵画的な発句を得意としたのです。
 
蕪村の俳句は、情景が目に浮かぶような感じがします。
 
 
古雛や むかしの人の 袖几帳
 
雛祭る 都はづれや 桃の月
 
箱を出る 顔わすれめや 雛二対
 
衣手は 露の光りや 紙雛

 
 

(3)小林一茶のひな祭りの俳句

 

 
小林一茶(こばやしいっさ)は、江戸時代後期に、長野県の農家の長男として生まれました。一茶は継母や異母弟と折り合いが悪く、15歳で江戸へ奉公に出ました。
 
25歳のころ俳諧を学び始め、39歳のとき、病に倒れた父の看病で一度信濃に戻りますが、父はそのまま他界しました。
 
50を過ぎてから数回結婚しますが、子供のほとんどは病気などで亡くなってしまいました。 江戸での暮らしも、貧しかったようです。
 
「おらが春」、「一茶発句集」という俳句文集を残しましたよ。一茶の作品は小さなものに対する優しさがにじみ出る、情のあるものが多いです。
 
 
御雛を しやぶりたがりて 這子(はうこ)哉
 
むさい家 との給ふやうな 雛哉
 
菱餅や 雛なき宿も なつかしき

 
 

近代以降の俳人の「ひな祭り」の俳句70個

 
明治時代以降の有名な俳人のひな祭りの俳句を、合わせて40個ご紹介します♪
 

(1)正岡子規のひな祭りの俳句

 

 
正岡子規(まさおかしき)は、近代俳句・短歌の祖と呼ばれる明治時代の俳人です。なぜそう呼ばれるのかというと、江戸時代まで俳諧と呼ばれていたものを「俳句」という名称にし、平安時代に失われていた和歌とは別の「短歌」という言葉を復活させたからです。
 
それについては、こちらの記事にしたくわしくお伝えしています。
   ↓
⇒近代俳句・短歌の祖・正岡子規とは?
 
これから先にご紹介するホトトギス派の俳人は、ほとんどが高浜虚子の弟子でした。
 
その高浜虚子の師匠が正岡子規です。
 
それだけ、近代の俳句や短歌に与えた影響の大きい人だということなのです。
 
 
人は寝て 雛がはやしの 太鼓哉
 
春の蚊や 一つとまりし 雛の顔
 
紙雛や 恋したさうな 顔許り
 
雛の影 桃の影壁に 重なりぬ
 
雛祭る 節供になりて 春の雪
 
おびたゞしく 古雛祭る 座敷かな
 
おもしろい ことして雛の 夕哉
 
きぬぎぬや 来年契る 雛の顔
 
ことごとく 誰やらに似る 雛哉
 
みなし子の ひとりで遊ぶ 雛哉
 
めでたしや 娘ばかりの 雛の宿
 
わが庵の 淋しき雛も 三日かな
 
古雛の はづかしげなり 市の月
 
天冠を 雛に著せたり 桃の花
 
姫君の あはれや雛の 子守歌
 
思ひ出に 雛と遊ばん よもすがら
 
昼過や 隣の雛を 見に行かん
 
朝見れば 笑ひこけたる 雛哉
 
雛あらば 娘あらばと 思ひけり
 
雛二つ 桃一枝や 床の上
 
雛棚の 小き雪洞(ぼんぼり) 灯のともる
 
雛棚や 幕紫に 桃赤し

 
 

(2)夏目漱石のひな祭りの俳句

 

 
夏目漱石(なつめそうせき)は、小説家として有名ですね。
 
「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「三四郎」「こころ」などなど今もベストセラーの純文学の大家・ロングセラー作家です。
 
そんな夏目漱石は、趣味の一つが俳句で、その師匠が親友でもあった正岡子規でした。
 
娘が3人いた漱石は、ひな祭りの俳句も残しています。
 
 
端然と 恋をしてゐる 雛かな
 
二人して 雛にかしづく 楽しさよ
 
仕立もの 持て行く家や 雛の宵
 
太刀佩(はい)て 恋する雛ぞ むつかしき
 
雛殿も 語らせ給へ 宵の雨

 
 

(3)水原秋櫻子のひな祭りの俳句

 

 
水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)は名前に「秋桜(コスモス)」が入って美しいですが、本名は水原豊という男性の俳人です。
 
高浜虚子に俳句を学んでいましたが、後に離反しました。
 
彼はホトトギス派の代表といわれた「ホトトギス四S(シイエス)」の1人です。「ホトトギス四S」は、水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十の4人を指しますよ。
 
本業は産婦人科医で、実家が皇室御用達の産科だったたため、秋櫻子もたくさんの皇族の赤ちゃんをとりあげたそうです。
 
 
天平の をとめぞ立てる 雛かな
 
かぎろへる 埴輪雛と 申すあり
 
うなゐ髪 推古雛と 申すあり
 
立雛の 衣手藤の 匂ふなり
 
立雛の 面輪匂ひて 眉目あり
 
立雛は 夜の真闇にも 立ちつづく

 
 

(4)山口誓子のひな祭りの俳句

 

 
山口誓子(やまぐちせいし)は京都の俳人で、本名は山口新比古(ちかひこ)という男性です。
 
先にのべた「ホトトギス四S(シイエス)」の1人でしたが、後に秋櫻子についてホトトギス派を離脱しました。
 
 
白酒の 瓶を間に 内裏雛
 
内裏雛 砂糖の鯛を 召し給ふ
 
内裏雛 背に小金屏 大金屏
 
官女雛 やや傾ける 立ち姿
 
官女雛 差し出す両掌 何も無し
 
女の雛の 髪ほぐれつつ 波の間に
 
本堂のみ 仏の燈も 雛の宵
 
武者飾り 皇后の顔 雛の顔
 
紅白が 日月雛の 鏡餅
 
腰掛けて 正面を向く 囃子雛
 
腰掛けて 鼓を打てる 囃子雛
 
雛段の 左近の桜 花の毬
 
雛段の 鏡小さき 虚を映す
 
雛段の 高きへ登る 紅き階

 
 

(5)山口青邨のひな祭りの俳句

 

 
山口青邨(やまぐちせいそん)は岩手県出身の俳人で、本名を吉朗といいます。
 
本職は鉱山博士でした。俳句の師匠は高浜虚子です。
 
 
若き父 鯛を釣り来と 雛まつり
 
くらがりに 馴れほのぼのと 雛の顔
 
奈良雛の 刀痕いまは 深くさび
 
ぢゞばゞの 草屋にぎやか 雛かざり
 
とぼしらの 明治の雛 飾りけり
 
僧都など 仕掛けし山家 雛飾る
 
菜の花の 白和もよし 雛料理
 
遅き雛 飾り乙女心に 老妻は
 
遅き雛 飾れば雪も 遅く降る
 
雛壇の 桃も菜の花も 影として

 
 

(6)飯田蛇笏のひな祭りの俳句

 

 
飯田蛇笏(いいだだこつ)は山梨県出身で、本名は飯田武治といいます。同じく俳人の飯田龍太は蛇笏の息子ですよ。
 
 
いきいきと 細目かがやく 雛かな
 
麺棒の とどろきわたる 宿の雛
 
やうやくに 雛餅干ぞる 旦暮かな
 
乙娘 雛も次第に なりにけり

 
 

(7)阿部みどり女のひな祭りの俳句

 

 
阿部みどり女(みどりじょ)は、大正から昭和時代の俳人です。(明治19年生まれ)
 
父は第2代北海道庁長官の永山武四郎で、本名はミツといいます。
 
結婚しましたが結核になり、転地療養中に俳句をはじめました。
 
師匠は高浜虚子です。
 
 
草庵に にはかの客や 貝雛
 
一塊の 雪もなくなり 雛あられ
 
藤色の 揃ひ座布団 雛の前
 
雛すぎの 書架に疲れし 花愛し
 
おくれ雛 まぶたに重き 恙かな
 
天平に つながる雛に 雪の翳
 
戦ひの 世に飾らるる 雛かな
 
折雛の 影鷹揚に 曳きにけり
 
雛の日を 仏と居りて 足らひたる

 
 

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