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こんにちは。
 
 
俳句の巨匠・松尾芭蕉は、江戸時代の俳諧師ですが、なぜ特別よく知られているのでしょうか? 実際はどんな人だったのでしょう?
 
 
彼は井原西鶴、近松門左衛門と並んで、「元禄3文豪」の1人にも数えられます。
 
 
昔の人なのでもちろんはっきり知るすべはありませんが、伝えられる逸話などからうかがい知る部分もありますね。
 
 
今回は、俳聖・松尾芭蕉の生涯を、サラッと追ってお伝えします。

 
 

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松尾芭蕉の簡単な生い立ち


本名:松尾宗房(むねふさ)
出身:伊賀国上野(三重県)
 
 
松尾家は準武士という待遇の農民で、芭蕉は6人兄妹の次男でした。
 
 
12歳の時に父が亡くなり、18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠に料理人として仕えることになりました。
 
 
藤堂藩は藤堂高虎を藩祖とする藩で、文芸・芸術を重んじる藩風がありました。芭蕉は藤堂良忠ととてもよく気が合って、彼から俳諧を習って詠み始めました。
 
 
22歳のとき、仕えていた良忠が病死してしまいます。これが、俳句にのめり込んでいく始めの転機になったのでした。
 
 
松尾芭蕉にとって主君であり師でもあった良忠は、かけがえのない人でした。その主君の死にかなりのショックを受け、その悲しみをまぎらわせるように、芭蕉はますます俳諧に夢中になりました。一時期、京都で俳諧の勉強を積んだとも伝わります。
 
 
33歳ごろ、俳諧師の「免許皆伝」となり、俳句を教えられる先生(宗匠)の資格を得ました。
 
 
そして、宗匠(そうしょう)として、江戸俳壇の中心地・日本橋に出て俳諧塾を開いたのでした。
 
 
でも、俳諧の先生になって教室(庵)を開いても生活していくのは難しく、なんと4年ほどの間、神田上水の水道工事の事務の祖事を副業でしていました。今の学習塾の先生の働き方みたいですね。なかなかシビアです。
 
 
江戸に来てみると、俳壇では「滑稽の機知」や」華やかさ」を競うつまらない句ばかりが流行っていました。
 
 
これは、芭蕉が目指していた「わびさび」の世界とは全く異なるものです。
 
 
芭蕉は静寂の中にある自然の美や、李白・杜甫ら漢詩人の孤高、魂の救済などを詠み込んだ世界を作り出したいと考えていました。
 
 
また、当時の俳壇は、俳諧をお金儲けや名声を得るための手段として考える風潮がありました。俳諧の宗匠たちは、弟子の数を競い合って俳諧を商売の道具のように扱っていたのです。
 
 
そんな状況を知った芭蕉は、自分の伝えたい俳諧はそんなもんじゃないと失望します。
 
 
そうして、彼は36歳(1680年)のとき、江戸の中心部からずっと離れた隅田川東岸の深川に草庵を結んでこもったのです。
 
 
当時の宗匠たちは、江戸の一等地・日本橋に庵を開くことこそ勝者という価値観だったのですが(商売人かという感じですね)、芭蕉の弟子たちは意外にも深川への移転を喜びました。
 
 
弟子たちもまた、芭蕉と同じような想いをもっていたのです。
 
 
彼らは一致団結して師匠の生活を支援します。その草庵の庭に「バショウ」を一株植えたところ、見事な葉がついて「バショウの家」と評判になったそうです。
 
 
そして、弟子たちがそこを「芭蕉庵」と呼び始め、芭蕉は自分の「号」を「芭蕉(はせを)」としたといわれています。(異説あり)
 
 
1682年、年末に「江戸の大火(八百屋お七の事件)」が起こり、芭蕉庵は全焼してしまいました。(翌年弟子たちが皆で再建してます)
 
 
40歳(1684年)のとき、亡くなった母親の墓参り目的に、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間、旅しました。この旅の紀行文が『野ざらし紀行』です。
 
 
これ以降の紀行文についてはこちらでお伝えしています。⇒★芭蕉の5つの紀行文
 

 

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俳諧師はスターだった?

 

 
江戸についてからの芭蕉の人生を追っていると、弟子たちがあれこれと彼の世話を焼いているのが分かります。
 
 
芭蕉庵では、彼のためにごはんを用意する弟子がいますし、旅に出れば、旅のコーディネーター兼マネージャー役がつきそいます。
 
 
そう、彼は今でいうとびきり有名な芸能人、スターだったのです。
 
 
当時の人気俳諧師は、そんな風にもてはやされていました。松尾芭蕉ぐらいの有名人になると、それこそ、たくさんの弟子が身の回りに集い、全国各地に弟子(ファン)がいたのです。
 
 
「奥の細道」のゴールでたくさんの弟子が駆けつけたのも、そういうわけなのです。大垣まではるばるやってくるほどですから、たいそうな人気者ですね。
 
 
芭蕉が亡くなったとき、葬儀には300人以上参列したと伝わります。私は歴史上の人数の統計は、あまり信用しないのですが、とにかく多かったというのは確かなのでしょう。

 
 

芭蕉は西行と源氏が好き!

 

 
松尾芭蕉は、旅に行き旅先で死んだ先人たちにあこがれを抱いていました。
 
 
杜甫や李白、能因法師、西行法師などです。
 
 
特に、西行のことは、奥の細道でも何度か話題に出していて、西行が訪れた東北の地をいくつも訪れています。
 
 
彼はまた、自分が源氏だからか源平の「源氏」が大好きでした。
特に、木曽義仲が好きだったようです。
 
 
有名な句「むざんやな甲の下のきりぎりす」も、木曽義仲ゆかりの多太神社で詠んだものです。
 
 
そして、芭蕉のお墓は、なぜか木曽義仲のお墓の隣にあります。
 
 
彼が生前「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言していたのだそうです。
 
 
そのため、松尾芭蕉のお墓は、故郷の伊賀でも活躍した江戸でもなく、大津・膳所の「義仲寺」にあるのでした。
 
 
芭蕉の本当の心は今となっては想像するしかありませんが、それほど特別な存在だったということですね。
 
 
芭蕉のお墓のそばに、「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑が建てられています。芭蕉の弟子「又玄(ゆうげん)」の句です。

 
 

「不易(ふえき)」「軽(かろ)み」って何?

 

 
松尾芭蕉は、晩年になって『奥の細道』の旅の途中、「不易(ふえき)」という俳諧論を打ち立てました。
 
 
抽象度が高すぎて、なかなか理解に苦しみます。
 
 
理想の俳句とはどういうものか、その目標とするべきものについて言及しているのですが、それが、「時代と共に変化する流行(流動性)を含みながら、かつ、永遠性を持つ詩心(普遍性)が備わっているもの」というものでした。
 
 
矛盾するものを1つの句で表現しようとする試みなのかと思ってしまいます。いずれにせよ、難しいです。
 
 
彼は、その後、「軽み」という新たな境地に至ります。
 
 
「軽み」というのは「私」を捨てて、自然に身を委ねることです。
 
 
松尾芭蕉は、「禅の教え」を学んでいたので、年と共にその影響が強くなっていたのでしょう。
 
 
なんだかこれ「無我の境地」みたいですね。禅の「空」に近い感じがします。
 
 
肩の力を抜いて、自由な境地に立ち、自然や人間に接しするという達観の域に達したといわれます。

 
 

おわりに


晩年になるほど達観していったので、句作も素晴らしいといえるかもしれませんが、結局、文芸は好みの問題だと私は思っています。
 
 
たとえば、松尾芭蕉の俳句では、「さび」の境地を感じる30代の有名な代表作のほうが、晩年の作品より私は好きなのでした。

 
 

松尾芭蕉の簡単年表

 
 
・1644年(0歳)
伊賀国(三重県)で誕生
準武士の家に生まれる
 
・1662年(18歳)
伊賀国の藩主・藤堂家の一族、藤堂良忠に仕える
良忠と共に、北村季吟の下で俳諧を勉強する
 
・1666年(22歳)
主君の良忠がなくなったため、藤堂家を離れる
 
・1677年(33歳)
俳諧師の免許皆伝となる(先生の資格)
 
・1684年(40歳)
伊賀へ向けて「野ざらし紀行」の旅に
 
・1686年(42歳)
春の発句会で「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」
 
・1689年(45歳)
弟子の河合曾良(かわいそら)と「奥の細道」の旅に
 
・1694年(50歳)
江戸から、伊賀、奈良を経て九州に向かう途中、大阪で客死
 
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松尾芭蕉の俳句と「奥の細道」のまとめ記事
 

 
 
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松尾芭蕉の有名俳句は「奥の細道」からが多いです。
 
 
ボリュームが多すぎず解説が分かりやすいので、古典のお勉強っぽくならず読み物としてサラリと読めます。絵や写真も挿入されていて、芭蕉は俳句だけでなく文章も上手だなーと納得できるのです!

   ⇓

by カエレバ

 
 

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