この記事を読むのに必要な時間は約 6 分です。
こんにちは。
松尾芭蕉は、漂泊の俳人と呼ばれるように、よく旅に出ているイメージがありますね。彼は、『奥の細道』以外にも、紀行文を残しています。
いくつあって、どんな作品なのか、ご存知でしょうか?
残した紀行文は、全部で「5つ」あるんですよ。
超有名な『奥の細道』は、その集大成にあたるのです。
いちばん始めに書いたのは『野ざらし紀行』なのですが、そのとき、芭蕉はすでに41歳になっていたんです。
結構、晩年になってからだったんですねー!
人生50年と言われる時代ですから、40代はもうかなり年とってますよ。
今回は、松尾芭蕉の5つの紀行文について、簡単にお伝えします。
1.『野ざらし紀行』
1684年の秋、芭蕉は41歳のときに長い旅に出ます。
江戸から故郷の伊賀上野に向かう旅でした。
この旅は、8月から翌年の4月までの、約2000㎞もの長期旅行だったのです。
帰りに木曽路、甲州路を経て江戸に戻ったので、約9カ月もかかったんですよ。
一緒に行ったのは、門人の千里でした。
この旅の間に、芭蕉は「蕉風」という彼ならではの俳諧の世界を確立します。
そして、この長旅を終えると、彼は旅の経験をテーマにして、『野ざらし紀行』という紀行文を書いたのです。
この作品以降、芭蕉は旅に出るたびに紀行文を、書くようになったのでした。
『野ざらし紀行』の名称は、旅立ちに際して詠んだ始めの一句に由来します。
↓↓
野ざらしを 心に風の しむ身かな
また、この俳句も、多くの人に愛されています。
一体、どんなすみれだったのかなあと、同じ道を歩きたくなりますね。
↓↓
山路来て 何やらゆかし すみれ草
『野ざらし紀行』の書き方は、俳諧が中心で、文章は詞書の性質が強いです。だんだん、この形も後の紀行文では、文章の比重が多くなって、変わっていくのですよ。
2.『鹿島詣』
1687年、芭蕉は名月を鑑賞するために、鹿島に向かって旅に出ました。
同伴者は、曾良と宋波です。
『奥の細道』で同伴する曾良さんが、この度も一緒だったんですね♪
芭蕉は、名月が好きですね。俳句もたくさん残しています。
紀行文『鹿島詣』は短い作品で、収められている俳諧(俳句)も少ないですが、「風流」を求めた趣のある秀作ですよ。
前半は紀行文っぽくて、後半は俳諧(俳句)を集めて、「月見の句」と「旅の句」に分けています。
地味ですが、芭蕉が本格的な紀行文を書く出発となった重要な作品なのです。
3.『笈の小文』(おいのこぶみ)
1687年冬に、芭蕉は、伊賀に帰って翌年は杜国を伴って、和歌山、大和、須磨、明石などを旅行します。
この紀行文は、散文の割合が今までの作品より多く、それに句文が融合する形になっています。
代表的な俳諧はこちらです。
↓↓
旅人と 我名よばれん 初しぐれ
4.『更級紀行』
1688年の秋、越人を伴って、名月を鑑賞するために信濃国更科(姥捨て山)に行った旅です。
ここは、有名な「姥捨伝説」がある土地なのです。
ある息子が、妻にそそのかされて年老いた母親を、姥捨山に捨てようと連れだしました。でも、姥捨山の名月の澄んだ美しさに心が洗われて、母を連れ帰ったという言い伝えがあるのです。ここから臨む名月が、人の心を変えるほど「美しい月」だということですね。
その「姨捨伝説」を、叙情的な俳諧(俳句)にして詠んだものです。
↓↓
俤(おもかげ)や 姥ひとり泣く 月の友
5.『奥の細道』
そして、ついに、芭蕉は、紀行文の集大成『奥の細道』の旅に出ます。
芭蕉が45歳のとき、江戸から東北、北陸をめぐり、岐阜の大垣がゴールした、約2400㎞の旅です。
門人の曾良を連れて行きました。
『奥の細道』については、こちらにも書いたのでご一緒にどうぞ♪
↓↓
『奥の細道』旅の道連れ・河合曾良は、○○でリタイアしたよ!