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こんにちは。
私は柚の香りが大好きなので、冬には柚茶をよくいただきます♪
柚には体をあたためる薬効があり、さわやかな香りがお料理を引き立てるので、古くから料理に欠かせない調味料のひとつでした。
昔から生活の中に取り入れられていたので、多くの俳人たちによって俳句の題材にされてきました。
今回は、そんな柚を季語にした俳句を集めました。
目次
柚は冬の季語
冬至に柚子湯に入る習慣があるので、わかりやすいですが、柚子の実は冬の季語です。
今回は、明治以降の俳人を中心に、柚を詠んだ俳句を集めました。
よい香りが漂ってきそうな俳句、料理に使われる美味しそうな俳句が多くて楽しいです。
(1)松尾芭蕉の柚の俳句
はじめに江戸時代の2人の俳諧師の俳句(俳諧)を紹介します。
松尾芭蕉といえば、俳句界の超ビッグネーム、江戸三大俳諧師の1人です。
彼は多くの旅に出て、その紀行文を残しました。
芭蕉については⇒★こちらを♪
柚の花や むかししのばん 料理の間
(2)小林一茶の柚の俳句
小林一茶(こばやしいっさ)は、江戸時代後期に長野県の農家の長男として生まれました。継母や異母弟と折り合いが悪く、15歳で江戸へ奉公に出ています。
25歳のころから俳諧を学び、39歳のとき、病に倒れた父の看病で一度信濃に戻りました。
50を過ぎてから数回結婚したのですが、子供のほとんどは病気などで亡くなっています。 江戸での暮らしも、相当貧しかったようですね。
「おらが春」、「一茶発句集」という俳句文集が有名です。一茶の作品は小さなものに対する優しさがにじみ出る、情のあるものが多いです。
鶯(うぐいす)も ひよいと来て鳴く 柚みそ哉
鳩どもや け起して見る 柚みそ哉
土焼の 利休の前へ 柚みそ哉
よほど「柚みそ」とやらが好きだったのかな?(^^)
(3)正岡子規の柚の俳句
たくさん俳句を残した正岡子規は、結核菌に侵され体が不自由になっても最期まで食べることが大好きだったそうです。
「柿食えば…」の有名俳句に残した柿は一度に5~6個ペロリとたいらげ、うなぎなど栄養価の高い食材も大好きな食通だったと伝わります。
柚の俳句も食にまつわるものが秀逸ですね。
子規の有名俳句はこちらに⇒知っておきたい正岡子規の5つの超有名俳句
古家や 累々として 柚子黄なり
荒壁や 柚子に楷子す 武家屋敷
葉まばらに 柚子あらはるゝ 後の月
禅寺の 柚味噌ねらふや 白蔵主
吸物に いさゝか匂ふ 花柚かな
釜こげる 柚子の上味 噌つめたかり
(4)高浜虚子の柚の俳句
高浜虚子は、明治から昭和にかけて活躍した俳人です。
喀血して自分の寿命を悟った正岡子規に後継者として指名され、それを拒否した人でした。(道灌山事件)
1897年に正岡子規の友人の柳原極堂が創刊した雑誌「ホトトギス」を引き継ぎました。
「ホトトギス」は俳句の他にも短歌、散文などを加えた総合文芸誌で、夏目漱石などから小説の寄稿を受けました。
もぎかけし 柚子を忘れて 棹のあり
今日はしも 柚湯なりける 旅の宿
(5)山口青邨の柚の俳句
山口 青邨(やまぐちせいそん)は岩手県出身の俳人で、本名は吉朗といいます。
本職は鉱山学者で、師匠は高浜虚子でした。
柚子の香や 高級料理 めかす妻
柚子の中 蓋とればあり 牡蠣の雲
柚子すでに デフオルメ一枚の 葉をつけて
(6)水原秋櫻子の柚の俳句
水原秋櫻子(しゅうおうし)、名前に「秋桜(コスモス)」が入って美しいですが、本名は水原豊という男性の俳人です。
高浜虚子に俳句を学んでいましたが、後に離反しました。
ホトトギス派の代表といわれた「ホトトギス四S(シイエス)」の1人です。
ちなみに、「ホトトギス四S」は、水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十の4人です。
本業は産婦人科医で、実家が皇室御用達の産科だったたため、彼もたくさんの皇族の赤ちゃんをとりあげたそうです。
旅びとに 斎の柚味噌や 高山寺
残る日の 柚子湯がわけば すぐ失せぬ
まだ青き 柚子をしぼるや 磯料理
土瓶蒸しに 庭の柚子添ふ それもよし
喜雨亭に 柚子湯沸くなり 帰り来て
柚子ひとつ 描きて疲る 風邪のあと
(7)日野草城の柚の俳句
日野草城(ひのそうじょう)は東京出身の俳人で、本名は克修(よしのぶ)、ホトトギスで俳句を学びました。
俳句雑誌にフィクションの新婚旅行の俳句を10句載せて師匠の高浜虚子に激怒され、「ホトトギス」を除名されました。
当時の俳句は、フィクションやエロティシズムの句はダメと厳しかったようです。京都東山の「ミヤコホテル」に泊まっていないのに新婚旅行に行ったという設定で句作をしたのが批判されました。きゅうくつですね。
室生犀星が「別にいいじゃん」と擁護したことで、「ミヤコホテル論争」と呼ばれる論争に発展しています。
虚子とは、晩年に和解できたようですよ。
うれしさよ 柚子にほふ湯に ずつぽりと
まどろみて 待つや柚子湯に ゐるひとを
枕頭に 柚子置けば秋の 風到る
(8)加藤楸邨の柚の俳句
加藤 楸邨(かとうしゅうそん)は、本名は健雄(たけお)といいます。国文学者で水原秋桜子の弟子でした。
抒情的な作品より人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を好んで、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれました。
なるかならぬか 柚子は今年も 寂寞と
手をのばす 青柚子一つ どしやぶりにて
月さして 青柚子は葉と わかれけり
柚子の間に 三日月一箇 秘めにけり
柚子が知る ひとりのときの わが声は
柚子の香や 四方風吹く 焼野原
柚子存在す 爪たてられて 匂ふとき
柚子載せて 餅はやうやく かがみ餅
柚子切つて 何も言ひたく なくなりぬ
青柚子を 絞れば鮎の ひびくなり
(9)種田山頭火の柚の俳句
自由過ぎる流浪の俳人・種田山頭火(だねださんとうか)。
自由律俳句を代表する変人(天才?)なので、字数ルールは無視しまくりで区切れもどこにあるのかよくわからない妙ちきりんな俳句たくさん残しています。
彼のような俳人もいるので、思い切って自由に作るのもおもしろいかもしれません。(先生の添削を受ける場合はおすすめしませんが)
彼の俳句はその生き様を知ってこそ生きてくると思います。私は好きです。
ゆふ空から 柚子の一つを もらふ
なんといふ 空がなごやかな 柚子の二つ三つ
落葉して 大空の柚子の ありどころ
柚子の香の ほのぼの遠い 山なみ
(オマケ)文豪の柚の俳句
夏目漱石
いたつきも 久しくなりぬ 柚は黄に
芥川龍之介
柚落ちて 明るき土や 夕時雨
明治の文豪・夏目漱石は、正岡子規と親交が深く彼に俳句の手ほどきを受けていました。
また、漱石が小説家としてデビューするきっかけを作ったのが、子規の弟子・高浜虚子でした。
俳人たちとも交流が深かったのがわかります。
芥川龍之介は大正時代を代表する大文豪です。
彼は始めは句作はまったくしなかったのですが、俳人の飯田蛇笏の影響を受けて次第に俳句を詠むようになっていきました。
でも、飯田蛇笏の始めの印象はあまりよくなかったようですよ。
それはこちら短編に書かれています。
⇒『飯田蛇笏』芥川龍之介(青空文庫)
木曜日に漱石先生のところへというのは、夏目漱石のサロン「木曜会」に参加したときのことです。
芥川龍之介は飯田蛇笏と書簡(手紙)のやりとりをする仲でした。もう少し長生きしていたら、きっと直接会っていたでしょう。
彼が自殺したとき、蛇笏は哀悼の句をささげています。
【冬の俳句いろいろ】
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