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こんにちは。
 
昔から伝わるわらべ歌は、意味が分かりにくくて不穏な感じのものが多いですね。
 
 
「通りゃんせ」もその1つです。
「行きはよいよい帰りは怖い」が、不気味すぎます。
「なんで? なんで? なんで帰りは怖いの~?」ってなります。
 
 
私はおばあちゃんっ子だったので、昔話や伝承をよくおばあちゃんから聞いて育ちました。おばあちゃんがわらべ歌や懐かしい昔の歌を、よく口ずさんでいたのです。
 
 
私が子供の頃は、まだ舗装されていない細いあぜ道が、裏通りにありました。
その道を通るたびに、この歌詞の「こーこはどこの細道じゃ♪」を思い出し、ぞっとしたのを覚えています。
 
 
昔話やわらべ歌は、ゾワッとくる不気味なものが多いですね。
今はそういうのは結構好きなのですが、子供の頃はマジで怖かったです。
 
 
ちなみにこの「通りゃんせ」、品詞分解すると、
動詞「通る」の連用形「通り」+助動詞「やんす」の命令形「やんせ」
となります。「やんす」なんて助動詞あるの?って思いますよね。
 
 
今回は、わらべ歌「通りゃんせ」の意味と由来についてお伝えします。

 

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「通りゃんせ」の歌詞

 

 
通りゃんせ通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちぃっと通してくだしゃんせ
御用の無い者通しゃせぬ
この子の七つの御祝いに御札を納めに参ります
行きはよいよい帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ通りゃんせ

  

全国各地にある伝承

 
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このわらべ歌ができたのは江戸時代といわれます。
 
「うちが発祥の地だー!」と名乗りを上げている場所は、実は全国に何か所もあって、特定できないのだそうですよ。
 
 
また歌詞の解釈も何通りもあります。
ちなみに、よくわらべ歌の都市伝説で出てくる、この2つの説もささやかれます。
  ↓↓
1.「間引き説」
2.「神隠し説」
 
 
おばあちゃんがこれは「神隠しの歌」と言っていたので、私はなぜか「鳥居が危ない!」と思い込み、神社にはけっして一人で近づきませんでした。
 
 
おばあちゃんちの近くに、あまり人の来ない小さな神社があったのです。神社の鳥居や御神木は、夜、見ると怖いんですよ。
 
 
でも、このわらべ歌には「天神様」という言葉が、はっきり使われていますね。
とすると、やっぱり、七五三の7歳のお祝いに、天神参りに行った歌と考えるのが自然だと思います。
 
 
江戸時代は乳幼児死亡率が高かったので、子供は「7歳までは神のうち」といわれていました。7歳というのが、節目の年だったようです。
 
 
その土地の氏神様の氏子にしてもらえる(戸籍みたいなもの)のが7歳からでした。それまでは、いつ病気などで亡くなるかわからないと思われていたんですね。
 
 
「亡くなる=神に召される(神の子)」ですよ。

 

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七五三の天神参り

 
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今のところ、諸説ある中で、もっとも有力といわれる発祥地がこちらです。
 ↓ ↓ ↓
神奈川県小田原市国府津(こうづ)の菅原神社
 
 
江戸の町で、当時から有名だった「国府津の天神さん」と呼ばれる神社がありました。それが、この菅原神社です。
 
そして、そのそばに控える関所が箱根の関所で、この歌詞はその関所を通るときのことを指しているという説です。(「七つのお祝い」に限ったものでなく、一般的な旅人の事情とひっかけています。そして、あくまで有力な一説です。)
 
 
当時の関所の審問は、信じられないぐらい厳しかったそうなのです。
 
 
親の臨終など急な場合に限り、「行き」は手形がなくても嘆願しまくったら許される場合がありました。でも、「帰り」は、いかなる事情があっても、絶対に絶対に許されなかったそうです。そして、「手形」なしで、こっそり通ったものは、見つかれば「極刑」でした。
 
 
それが、「行きはよいよい 帰りはこわい」の原型になったのではないかと推測されています。
 
 
【参考:知れば恐ろしい日本人の風習 /河出書房新社/千葉公慈
  
 
 

三大怨霊・菅原道真

 
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なぜ、これほど「天神さま」は、恐れられるようになったのでしょう。
 
今では「学問の神」と崇められている天神さんですが、古くは「祟り神」として恐れられていました。天神というのは天の雷、つまり雷神なのです。怒られたら怖いですよ~!
 
 
菅原道真は平安時代の秀才で、宇多天皇に重用されて右大臣になった人です。
 

 
権力が宇多天皇から醍醐天皇と藤原時平に移ると、菅原道真は、彼らに煙たがれます。そして、偽りの罪をきせられて、大宰府に左遷されたのです。
 
 
道真はそれから2年後、失意のうちに大宰府で亡くなりました。
 
 
福岡県大宰府にも天満宮があり、その参道で「てんじんさん」ゆかりの「梅ヶ枝餅(うめがえもち)」と呼ばれる焼餅が売られています。
 
 
梅ヶ枝餅とその逸話はこちらでお伝えしています。
 
 
⇒★大宰府銘菓「梅ヶ枝餅」は菅原道真の思い出の焼餅
 
 
すると、それから京の都で、災厄や天変地異が起こり始めたのです。
特に、菅原道真を無実の罪で陥れた人々に、災厄がふりかかりました。
 
 
「祟り」といわれた事件は、たくさんあります。
これはこじつけだろーと言いたくなるものもありますが、平安人は祟りと信じていたのです!   ↓↓

●菅原道真を追いやった首謀者の1人・藤原定国が41歳で急死。(906年)
 
●菅原道真を救うため、醍醐天皇に直訴しに駆けつけた宇多上皇の行く手を阻んだ藤原菅根(すがね)が雷に打たれて死亡。(908年)
 
●首謀者・藤原時平が、39歳で菅原道真の祟りに怯えながら狂死(909年)
 
●源光が狩りの最中に、乗っていた馬ごと底なし沼にはまって行方不明。(913年)
 
●醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)が21歳で急死。(923年)
 
●保明親王の死後、皇太子となった慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)が5歳で死亡。(925年)。
 
●この間、京都は、台風・洪水・疫病と災厄続き。
 
●内裏の清涼殿に落雷が発生・左遷された菅原道真の動向監視を命じられていた藤原清貫に雷が直撃、胸が張り裂けて死亡。(930年)
 
●醍醐天皇が落雷事件のショックで病気になり、3か月後に死亡。

 
 
藤原氏の中で、時平の弟の藤原忠平だけは、菅原道真と仲がよく、彼に深く同情し、大宰府にも励ましの手紙を送っていました。
 
 
彼は祟られることなく、事態が収拾した後に、左大臣から摂政関白という最高の地位に就き、活躍します。
 
 
忠平は、バランス感覚のある穏やかな人柄だったようですよ。

 
都の貴族たちは、あまりの事態に、ビビりまくり、とうとう菅原道真を神として祀ることに決めました。
 
そして、942年から5年の歳月をかけて神社が建立されたのです。
それが、今の北野天満です。
 
「北野天満宮」は、全国に約1万2000社もある天満宮、天神社の総本社で、菅原道真は、今では「学問の神様」として、多くの受験生に参拝されています。
 
 
祟り神が受験の神様になったのです。
日本人の発想って、柔軟でおもしろいですね♪
 
 
 
風習や言い伝えには、複数の説が存在します。今回はこちらの書籍を参考にしました。

     ↓

by カエレバ

 

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