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こんにちは、このかです。
 
 
相変わらず、断捨離中です。
明日、業者さんがピアノを引き取りに来てくれます。
 
 
そして、分け入っても分け入っても本の山の娘の部屋掃除を手伝っていたら、ある本を見つけたのです。

      ↓

 
 
こ、これは~!
「こんなの持ってたなら、貸してくれればよかったのに。」
「あ~、そういえば、だいぶ前に買ったような?」
 
 
買った理由は、「帯に第31回(1995年) 谷崎潤一郎賞受賞」とあったからだそうです。( ̄▽ ̄)
 
 
ああ、やっぱり、そっちなのね・・・
⇒誕プレも「谷崎潤一郎」を求める変態娘
 
 
西行に世阿弥の「風姿花伝」を彷彿させる「西行花伝」。
どうやら作者の想い入れコミの西行の一生を考察した作品らしいです。
なーんだ、作者目線か。
 
 
西行は、すごく魅力的な歌人です。でも、私の「すごい」は、和歌の「評価」ではないのです。(歌の良し悪しなんて、つきつめれば「好み」だと思うので)
 
 
「男としての生き様」が、まさにわたくし好みなのです~♪(もちろん妄想込)
こちらで、かなりほめたたえておりますが、まだまだ不十分なのです。
  ↓
⇒「西行法師」の生き様が超絶クールなわけ!桜と月に魅せられた放浪の歌人
⇒「桜」と「月」の大歌人・西行法師がよくわかる旅の逸話を2つ紹介
⇒「桜」と「月」を愛した歌人・西行法師の和歌を「山家集」から15首紹介
 
学校では、和歌より俳句なので、芭蕉ばっかり取り上げられますが、その芭蕉がリスペクトしていた人こそ、この西行法師なのですよ。
 
 
芭蕉だけでなく、いろんな人が、西行の「生き様」にあこがれています。
(愛があるので、ここから先はかなり贔屓目線です。)

 
 

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西行法師のどこがすごいの?

 

 
西行は、元祖・漂白の歌人と呼ばれる人です。「能因の歌枕」で知られる能因法師のほうが古い人なのですが、西行のほうが取り上げられることが多いです。
 
 
それはどうしてかな~と理由を考えてみました。
 
 
1.宮廷人すら憧れる「地位」を手にしていたのにきっぱり捨てた
2.文武両道で歌の才能も抜群だったのにすっぱり捨てた
3.イケメンで妻子持ち、家庭も仕事も安定してたのに捨てた
4.全部捨てたのが23歳の若さだった
     ↓
そして出家後の生き方が超クール!
 
 
彼は、「北面の武士」という院直属の精鋭部隊に17歳で就任しました。この役職は、「家柄、文武両道、容姿端麗」が必須条件と言われていました。同期に平清盛がいます。
 
 
西行=佐藤義清(さとうのりきよ)は、流鏑馬(やぶさめ)の名手で蹴鞠も上手、和歌は言うまでもなく、管絃や今様の名手でもあり、鳥羽院の覚えも愛でたかったのです。
 
 
要するに、人がうらやむエリートコースを約束されていたのに、若くしてすっぱりそれを捨てて「歌」に生きた人なのです。
 
 
待賢門院との悲恋が原因だという説もありますがゴシップだと思います。もしあったとしても鳥羽院VS崇徳天皇とその母・ 待賢門院とのいざこざに嫌気がさしたとかではないでしょうか。

 
 

意外と人間臭い逸話が多い

 

 
彼は出家してからも、藤原定家に歌人として尊敬されていたり、奥州藤原氏が滅びる直前に藤原秀衡に会いに行き、その途中で、なんと源頼朝と会って流鏑馬(やぶさめ)講釈を請われたりもしています。
 
 
また、危険をおかして仁和寺に捕らわれている崇徳院を慰めに行き、崇徳院の讃岐配流後は、たくさん歌(手紙)を送ってなぐさめたりと、なぜか現世の人々と、ずーっと長いおつきあいを続けた人なのでした。
 
 
世俗の事に無関心な世捨て人ではなく、多くの人に慕われ、知人のために働いた、とても人情味のある人だったのです。
 
 
でも、かっこよく出家した(当時、宮廷の人々にすごくかっこいい生き方だとうわさになった)わりに、未練たらたらの和歌をいっぱい残してますし、捨てたはずの娘の元へこっそり戻って、友達と遊んでいるのを盗み見して見つかり「変なおっさんがいるー!」と言われて逃げたりと、いろんな変な逸話も残しています。
 
 
私は、西行のこの人間臭い、なんだかいけてないところが見え隠れするのが、すごく好きなのです。
 
 
多くの人がほめたたえる
 
「歌でこの世界を統べるという崇高な理念を持つ人だった」
「そのために俗世を捨てながら、現世の森羅万象を愛した人だった」
 
などという綺麗な言葉も素敵ですけど・・・。
 
 
抽象的すぎて、なんかピンとこないのでした。
 
 
でも、ただただ素晴らしいだけの人に、人(私?)はそんなに魅かれないと思うのです。

 
 

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高杉晋作も西行をリスペクト?

 

 
幕末の風雲児・長州藩の高杉晋作は、実は、西行を尊敬していたことで知られています。
 
 
「なんで、晋作が~!」(←好みが一緒なのが嫌なだけ)
と、思うのですが、真実なのでした。
 
 
高杉晋作のことは歴史サイトに書いているのですが、このネタを書くと歴史からズレてしまうので、少しだけにしました。
 
 
⇒イギリス公館焼き討ちで隠遁した高杉晋作
 
 
高杉晋作は、思い立ったら即実行という松陰先生直伝の行動派として知られますが、実は、かなり知識も豊富なインテリでした。松下村塾には、久坂玄瑞という秀才がいたのであまり目立ちませんが、漢詩の才能があり、古典にもかなり精通していたのです。
 
 
そんな高杉晋作、いろいろ長州藩にとって危ないことをやらかしていますが、イギリス公館を焼討するというびっくりな事件を起こして、藩の偉い人に叱られたことがあります。
 
 
そのとき「それじゃあ、隠遁しまーす。」と庵にこもって名乗ったのが、西行にあやかった東行(とうぎょう)なのでした。
 
 
なんだかシャレみたいですね。そんな軽いノリだったのかもしれません。それでも西行を選んだということは、それなりに気になる存在だったのでしょう。
 
 
でも、この高杉の隠遁生活は、たった2カ月で終わります。フランスとアメリカ連合艦隊に攻め込まれた長州藩が、慌てて高杉を呼び戻したからでした。
 
 
現在、下関にある高杉晋作の墓所は、「東行庵」「東行記念館」と名づけられて、聖地の1つになってるそうですよ。「東行」という名前が残っているところが、おもしろいです。