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太宰治の短編作品は読みやすくて好きなので、少し時間のあるときによく読み返しています。
今回ご紹介する『駈込み訴え』は、軽快な文章で太宰流のウィットにも富んだ、とてもおもしろい小説です。
人間心理の考察や、意外な展開を用意しているところがさすがだなと思います。
簡単なあらすじ
『駈込み訴え』は、イエス・キリスト(ナザレのイエス)を密告した裏切者の弟子・イスカリオテのユダの逸話を題材にした作品です。
太宰治の独特な文章で「ユダがキリストを裏切った理由」にばっちり焦点をあてて描いたところがポイント。
文章は一貫して「ユダの訴え(一人語り)」になっています。一人称なのでとても読みやすいです。
この作品にはイエスの名が一切出てこず、ただユダが「あの人」と語るのみにとどめています。そして、ユダ自身ははじめから自称を「私」で通し、最後の最後に「私の名は、商人のユダ」「イスカリオテのユダ」と告白します。
しかし最後まで読まなくても、最後の晩餐やイエスとユダの逸話を知っている人なら、これはイエスとユダの話なんだなと、ピンとくるように書かれています。
イスカリオテのユダは、イエスの弟子の中で特に優れた12人・十二使徒の1人で、多くの文学作品、芸術作品に取り上げられました。裏切者の代名詞です。
たとえば、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」。
真ん中がナザレのイエス(キリスト)、その左側にいるのが最年少使徒の美少年ヨハネ(十二使徒のなかで唯一殉教せず長生きし、福音書や黙示録を残す)。ヨハネの左隣の老人がペトロ(ローマで皇帝ネロに捕らえられ逆十字にかけられ殉教)。その左手前にいる浅黒い肌の人物がイスカリオテのユダです。
彼の裏切り行為は、イエスの他の弟子たちが残した「新約聖書」(「マタイ福音書」・「ヨハネ福音書」など)に記されています。
「マタイ福音書」によると、ユダは報奨金が目当てで祭司にイエスの引き渡しを持ちかけ、銀貨30シェケルをもらう約束をしたとあります。
つまり、金に目がくらんで師を売ったということです。
でも、本当にそうだったのでしょうか。
真の理由はどうであれ、ユダのこの訴えでナザレのイエスは捕えられ、エルサレムのゴルゴダの丘で公開処刑(キリストの磔刑)されました。
師を処刑台に送るというのはよっぽどのことです。ユダの心理は非常に興味深いですね。
そもそもユダは他の田舎者(漁師出身など)の弟子たちとは違い、もとは都市部の商人でした。金銭感覚がもっとも優れていた弟子で、財務担当をしていたといわれます。
そんな彼が報奨金のたった銀貨30シェケルに目がくらむだろうか、という疑問は当然出てきます。(30シェケルは一生遊んで暮らせるような大金ではありません)
ならば、「真の理由」はなんだったのかと太宰治が考察したくなった結果がこの作品でしょう。
太宰の想像したユダの心境が、この『駈込み訴え』の中にしっかり描かれています。
テーマは愛?というより独占欲!
この作品の中で、ユダは私がイエスをもっとも愛している人間だと言い切っています。彼はイエスを深く深く愛していました。(※『駈込み訴え』の中のユダです)
でも、一方で自分の能力を正しく評価してくれないイエスに対し深い憎悪も抱いていました。
愛憎は表裏一体といいますね。。
ユダがイエスにとって「たった一人の特別な人間になりたかったのだ」と誘導したい太宰の発想と表現がおもしろいです。
さすがに何度も心中事件をおこした人だなあと納得。
マリア(=イエスに油を注いだ女性)にイエスが恋心を抱いたのではないかと、ユダが勘繰って強いジェラシーを感じたところもおもしろいです。
ユダの愛情は、相手の幸せを優先する見返りを求めない愛とは違う、独占欲でしょう。
その心情は作品中のユダの言葉によくあらわれています。
ユダの心情が垣間見える言葉
「私はあなたを愛しています、ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。」
「私はあの人を愛している。あの人が死ねば私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すぐらいなら、手渡す前に私はあの人を殺してあげる。」
「ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。」 (←マリアに対して)
かなりの激情ですね。破滅的な恋情、情熱の炎で自分も相手も焼き尽してしまうようなドラマチックな愛のようであり、人気者を独占したいというただの独占欲なのかもしれない。
すごく尊敬している師や憧れの人など一目置く人から「自分が一番」と思われたい願望。こういう気持ちは、多少は誰でも持っていると思います。だから共感されるのかと。
でもこのような激情は、見返りを得られないと分かったとき、激しい憎悪にコロッとひっくり返るので危険極まりないですね。。
そうしてユダは気持ちを抑えきれず実行に移してしまったのでした。(作品の中ではそういう展開です)
決定打はキリストの意地悪な仕打ち?
作品の後半で、ユダは一度は裏切りを思いとどまろうと考えます。
しかし、そのときイエスが、この中に私を裏切る者がいる、その者に今からパンを与えると言い、みんな(十二使徒)の前でユダの口に一つまみのパンを押し入れたのです。
師匠によるつるし上げみたいなシーンです。
イエスはユダに「おまえの為すことを速やかに為せ」と言いました。
ここの件(くだり)は、新約聖書「ヨハネ福音書」の「汝(なんじ)のなすべきことをなせ」と似通っていますね。(いろんな作品に引用されている聖書の名言!)
この行為に対してユダは怒り、「いやな奴」「ひどい人」「私を今まで、あんなにいじめた」と心の中でののしりました。
そして可愛さ余って憎さ百倍、そのまますぐに駈込み訴え、イエスの居場所を告白しに行ったのです。
金儲けは卑しい行為か
本作品で、太宰はユダに「金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ、ひっこめろ!」とはっきり言わせています。
が、その後すぐにひっくり返して、やはり「いただきましょう」と報奨金の三十銀を受け取らせました。
ユダが受け取った理由は・・・
自分が商人だから。
金銭ゆえに優美なあの人からいつも軽蔑されてきたから。
いやしめられている金銭であの人に復讐してやるのだと思ったから。
卑しい自分に一番ふさわしい復讐の方法が、金であの人を売ることだという自虐的な発想です。
そうして、最後は自分に言い聞かせるようにこう述べます。
私はあの人なんか愛していなかった、金欲しさについて歩いていたのだ。そして、ちっとも儲けさせてくれないと見極めがついたから、商人らしく金で素早く寝返ったのだ・・・
今までさんざん訴えてた愛の告白はいったいなんだったんだと言いたくなるようなひっくり返し方で、従来どおりの「理由」に帳尻を合わせたジ・エンドです。
まあ、ユダの本心はこれ(=お金)ではないよね、と示唆しているのですが。
この最後の展開が実に太宰らしくておもしろいのでした。
おわりに
『駈込み訴え』は、おそらく20分もあれば読み終わる短編です。
一人称ですごく読みやすい文章なので、すき間時間などに是非読んでみてください。
聖書やキリスト教史に興味のある方に、特におすすめですよ。
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「駆込み訴え」太宰治(青空文庫)