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わらべ歌には、意味がよくわからなく、不穏な感じがするものが多いです。
 
「通りゃんせ」もその1つ。
 
「行きはよいよい帰りは怖い」
に、不気味なものを感じますね。
 
ちなみにこの「通りゃんせ」の文法的意味は、
動詞「通る」の連用形「通り」+助動詞「やんす」の命令形「やんせ」
です。
 
今回は、わらべ歌「通りゃんせ」の意味と由来について、お話しします。

 

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「通りゃんせ」の歌詞

通りゃんせ通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちぃっと通してくだしゃんせ
御用の無い者通しゃせぬ
この子の七つの御祝いに御札を納めに参ります
行きはよいよい帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ通りゃんせ

 

全国各地にある伝承

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江戸時代に成立したわらべ歌です。
 
この唄の発祥の地と名乗りを上げている場所は、実は全国に何か所もあり、特定はできません。また歌詞の解釈も何通りもあります。
また、いろんなわらべ歌の深い意味として、多用される説も考えられます。
 
1.「間引き説」
2.「神隠し説」
 
この2つの説は、いろいろな伝承で語られます。
私は、子供の頃、「神隠し」にあうと聞かされていたので、この寂しいメロディーと相まって、すごく不安になりました。(゚Д゚;)
 
でも、「神隠し」という言葉は、空想的でワクワクしますね。
「千と千尋の神隠し」のせいかな・・・?
 
他には、「細道」を「産道」の意味とする、気持ち悪い解釈もあります。
 
でも、このわらべ歌には「天神様」という言葉が、はっきり歌詞にありますね。
ですから、七五三の7歳のお祝いに、天神参りに行った歌だと思われます。
 
江戸時代は、子供は「7歳までは神のうち」といわれました。
乳幼児の死亡率が軽く50%を超えていた時代だったため、7歳になるまで無事に育つ子がたいへん少なかたからですね。

 

七五三の天神参り

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現在のところ、諸説ある中で、もっとも有力といわれるのがこちらです。
 ↓ ↓ ↓
「神奈川県小田原市国府津(こうづ)の菅原神社を発祥の地とする説」
 
つまり、江戸の町でも当時から有名だった「国府津の天神さん」をそばにに控える「箱根の関所」を歌ったものとする解釈です。
 
当時の関所の審問は厳重を極めました。親の臨終などの急な場合は、行きは手形がなくても嘆願して許されることがありましたが、帰りは如何なる事情があっても絶対に許されませんでした。手形なしで通行したものは極刑です。
 
それが、「行きはよいよい 帰りはこわい」となったといわれます。
 
一方、「こわい」という語には、「手ごわい」「骨が折れる」という意味もあります。
 
もしも、こちらの意味だった場合、手ごわいのは「通行人」であり、この歌詞は、関所の役人の立場に立ったものともとらえられます。
 
手ごわい上に本当に恐ろしい「天神様」の名を語れば、昔から、有無を言わさぬ絶対的な意見としてまかり通ったということでしょう。

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三大怨霊・菅原道真

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なぜ、これほど「天神さま」は、恐れられるようになったのでしょう。
今では「学問の神」と崇められますが、古くは「祟り神」として恐れられました。
 
菅原道真は、平安時代の秀才で活躍で、宇多天皇に重用され右大臣になった人物です。
 
道真公の紹介と歌は、こちらにもあります。↓

 
 

 
菅原道真は、権力が宇多天皇から醍醐天皇と藤原時平に移ると煙たがれ、讒言により大宰府に左遷されます。
 
2年後、道真が大宰府で失意の死を遂げると、京の都では、災厄や天変地異が起こり続け、止むことがありませんでした。
 
特に、菅原道真を無実の罪で陥れた人々に、災厄がふりかかります。
「祟り」といわれたのは、これらの事件です。↓

 

●菅原道真を追いやった首謀者の1人・藤原定国が41歳で急死。(906年)
 
●菅原道真を救うため、醍醐天皇に直訴しに駆けつけた宇多上皇の行く手を阻んだ藤原菅根(すがね)が雷に打たれて死亡。(908年)
 
●首謀者・藤原時平が、39歳で菅原道真の祟りに怯えながら狂死(909年)
 
●源光が狩りの最中に、乗っていた馬ごと底なし沼にはまって行方不明。(913年)
 
●醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)が21歳で急死。(923年)
 
●保明親王の死後、皇太子となった慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)が5歳で死亡。(925年)。
 
●この間、京都は、台風・洪水・疫病と災厄続き。
 
●内裏の清涼殿に落雷が発生・左遷された菅原道真の動向監視を命じられていた藤原清貫に雷が直撃、胸が張り裂けて死亡。(930年)
 
●醍醐天皇が落雷事件のショックで病気になり、3か月後に死亡。

 
藤原時平の弟である藤原忠平だけは、菅原道真に同情の思いを寄せていて、励ましの手紙などを送っていたこともあり、祟られてはいません。
 
藤原忠平は、事態が収拾した後も左大臣から摂政関白となり、藤原北家を支え国の中枢で活躍しました。
彼の穏やかな人柄は、こちらにもあります。
合わせてどうぞ。↓


 
あまりの事態に、菅原道真を神として祀ることに決まり、942年から5年の歳月をかけて神社が建立されました。
それが「北野天満宮」です。
 
「北野天満宮」は、全国約1万2000社の天満宮、天神社の総本社です。
ご祭神・菅原道真は、今では「学問の神様」として多くの受験生に参拝されています。
 
また、梅や紅葉の名所としても、広く知られています。


 
 

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