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紫式部といえば『源氏物語』。
 
しかし、日記と歌集も残していたのをご存知ですか?
 
 
『紫式部集』は、紫式部自身が自作の歌を精選し、並べ方も決めたといわれる家集(私家集)です。
 
 
家集とは、帝の命令による公的な勅撰集とちがって個人がつくったもの。
 
 
娘時代から結婚前後のこと・夫との別れ・宮仕え中の様々な思いが、この1冊につめこまれているのです!
 
 
今回は紫式部が家集に残した歌を10首ご紹介します。
 
 
※引用にあたって詞書(ことばがき=歌の趣旨をあらわす前書き)は省略しました。

 
 

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① 友達への歌

 

 

めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間(ま)に 雲隠れにし 夜半(よは)の月かげ【家集:1番】
 
(訳)久しぶりにお逢いしたのは本当にあなただったのかしら。それも分からぬうちに、月が雲に隠れるようにして遠ざかっていった私のお友達…

 
 
『紫式部集』のトップバッターで、紫式部にとって大切な歌だったと想像できます。昔の「童友だち」、つまり幼馴染に会ったときの感慨を詠んだものです。
 
 
『百人一首』57番としても有名ですね。
 
 
この友とは、夜、ほんの短い間しか会えなかったのでしょう。月を友の顔にたとえ、すぐに隠れてしまった=帰ってしまったといいます。
 
 
あなただったのか分からないうちに、というのは、彼女が昔と大きく変わっていたことを示したいのかもしれません。
 
 
時の流れをかみしめさせる歌です。

 
 

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西へゆく 月のたよりに 玉づさの 書き絶えめやは 雲の通ひ路【7番】
 
(訳)月は夜ごとに西をさしてまわっていくものだから、月にことづけてでも、あなたへのお便りを欠かさずお届けしますよ。

 
 
筑紫(つくし=九州)への出発をひかえた友への返歌。彼女は、紫式部と同じように、受領(ずりょう=地方配属のトップ公務員)を父にもつ娘だと思われます。
 
 
さかえていた地方とはいえ、筑紫は当時の都からすれば遠い遠い西国でした。
 
 
悲嘆にくれる友をなぐさめる紫式部。どちらかというと、頼られるタイプだったのかも。

 
 

② 越前へ下ったときの歌

 

 

三尾(みお)の海に 網引く民の てまもなく 立ち居につけて 都恋ひしも【20番】
 
(訳)三尾が埼の浜辺で、休む間もなく網を引く人の姿を見るにつけ、都恋しさがつのってたまりません。

 
 
996年正月、紫式部の父・為時(ためとき)は越前守に任命され、夏頃に一家をあげて越前へ向かいました。
 
 
紫式部は970年代中頃に生まれたので、20歳くらいのときですね。
 
 
その途中、琵琶湖西岸にさしかかったときの光景が詠まれています。
 
 
中流階級とはいえ貴族の彼女にとって、海辺で漁をする人々はなじみのない存在でしょう。
 
 
はじまったばかりの旅ですが、はやくもゆらぐ気持ちがあらわれます。

 
 

③ 結婚前後の歌

 

 

おぼつかな それかあらぬか 明けぐれの 空おぼれする 朝顔の花【4番】
 
(訳)どうもハッキリしませんね。あなただったのかしら、違ったのかしら。明け方の暗がりのなかで、お顔がぼんやりとしか見えなくて…(私には分かっています、いらしたのは間違いなくあなたなんでしょう)。

 
 
現代人の感覚ではとらえがたい、不思議な一首です。
 
 
「方違へ(かたたがえ)」に来た誰かサンへの歌で、やがて夫となる宣孝(のぶたか)との最初のやりとりだといわれます。
 
 
方違えとは、天一神でふさがった方角を不吉なものとし、それを避けるために一時ほかの場所へ泊まる=方角を違えること。陰陽道にもとづいた当時の風習です。
 
 
この頃の貴族は、方違えと言ってはしょっちゅうどこかへ泊まりに行きました。
 
『源氏物語』序盤、光る君が空蝉(うつせみ)との逢瀬をとげたそもそもの理由もコレです。
 
 
中流階級ではよく知人・親戚間で宿を提供しあいました。
 
 
宣孝は為時の同僚でもあり、彼の曾祖父=為時の母方の祖父です(ややこしい…(-ω-;))。
 
 
そんな関係から、このとき来ていたのも宣孝だろうと考えられます。
 
 
彼は泊めてもらった家の娘の寝所へ、明け方の暗いときに忍びこんだのでした(…)。
 
 
だから、顔もよく見えないまま。アポなし訪問(?)の場合は、男性からの翌朝のアクション(=後朝の文や贈りもの)でようやく相手を特定できます。
 
 
紫式部は、ビックリするどころかとっちめてやろうとしているようです。彼女のほうから歌を詠みかけており、なかなかに積極的。
 
 
この2人はすでに仲良しだったのかもしれませんね。
 
 
『源氏物語』の世界が、当時リアルに展開されていたということでしょう。ちょっとビックリ。

 
 

折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひぐまなき 桜惜しまじ【36番】
 
(訳)桃の花を手折ってみるというなら、ぜひとも近まさりして見えてほしいものだわ。だとすれば、人の気も知らないですぐに散る桜なんか、惜しいとは思わないでしょうよ。

 
 
桜と桃の花との落差に注目すると、紫式部の真意がみえてきます。
 
 
『古今和歌集』(905年)以来、歌の題材として、桜はデラックス級の扱い。一方、桃の花はかえりみられなくなりました。
 
 
古典あるあるですが「花を折る(手折る)」という表現は、女性をめとる(わがものにする)ことの暗示
 
 
自分を桃の花に見立てた紫式部が、
 
「見向きもされない桃の花でも、手に取って眺めれば、思いがけない美しさがあると気づかせたい」=「いざ結婚してみたら話に聞いていたよりずっといいオンナだった!と思ってほしい」
 
との気持ちをこめたのです。
 
 
新婚当時の歌でしょうか。
 
 
政略結婚でない場合、男性は、歌の詠みぶりや周囲の噂を手がかりに求婚するしかなく、相手の顔もろくに知らない状態でした。

 

 

見し人の 煙となりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦【48番】
 
(訳)夫が葬られて煙となった夕べから、塩釜の浦という名さえ懐かしく思われます(見るもの聞くものいっさいに、あの人を失った今の思いを寄せてみずにはいられません)。

 
 
20歳年上の宣孝にはもう他の妻や子があったけれど(当時は一夫多妻)、それなりに穏やかな結婚生活で、娘も誕生しました。
 
 
しかし、彼はたった2年で帰らぬ人となってしまうのです。
 
 
1000年頃、日本に上陸したといわれる疫病が原因かもしれません。
 
 
詞書によれば、このとき紫式部は塩釜の浦(=いまの宮城県にある)が描かれた絵を眺めていました。
 
塩を焼く煙を連想させるワードですね。
 
 
ダイレクトに「恋しい」「悲しい」とはいわず、見聞きしたものをとおして自分の現状を示します。
 
遠回しな表現が美しい。。
 
 
これ以降、世を儚むかのようなしずんだトーンの歌が出てきます。
 
 
宣孝を失った衝撃と共に、娘をかかえてどう生きていけばいいのか、将来への不安などもつのったことでしょう。

 
 

若竹の 生ひゆく末を 祈るかな この世を憂しと 厭ふものから【53番】
 
(訳)子が長生きしますようにと祈る私は、今まさにこの世の定めなさ・無常を感じているのでした…(この、相反する2つの心でゆれています)。

 
 
「若竹」とはまだ2~3歳の娘・賢子(けんし)のこと。母とおなじ道に進み、のちに女房になって宮中で活躍します。
 
 
その母は疫病の流行や夫の死を経験して、世の中は先々どうなるか分からない、と生の儚さを感じています。
 
 
でも、娘が病気にでもなれば回復を祈らずにはいられないし、すこやかに生きてほしい…。
 
 
2つの気持ちが同時に存在する自分への違和感・苦しさが伝わります。

 
 

数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり【54番】
 
(訳)私の身の上では、自分の心さえ思い通りにならない…でも、心はすぐ現実に引きずられ、いつもこの身(=現実)を受け入れているではないか。

 
 
紫式部はしばしば「身」と「心」の対立に悩まされています。
 
 
身⇒心のままにはならない
心⇒たやすく身に従ってしまう

 
 
おのれの内なる心は弱く、外側のものに流されるしかない。様々な圧迫や支配をうけて苦しい身の上を嘆くのです。
 
 
現実=この世にゲンメツして生きるのがいやになっても、そんな現実に抵抗しようともがく「心」。
 
 
『源氏物語』には「宿世(すくせ)」という言葉・概念がよく出てきます。
 
あなたと出会ってただならぬ関係になったのも宿世の縁、あらかじめ決まっていてどうにもならないんだよ、といったノリです。もちろん、宮中における地位=生存に関わる事柄でも使われました。
 
 
人間に現実を変える力はなく、どんなことでも受け入れるしかないというあきらめ。当時の人々も、イヤな現実をいかに受け入れるかに重点をおきました。
 
 
しかし、紫式部はあきらめたくなかったのかもしれません。
 
 
この後、気が晴れないまま宮仕えに出ていきました。藤原道長が『源氏物語』の評判を聞きつけ、娘(彰子)の後宮の繁栄のためにスカウトしたからだ、といわれていますね。

 
 

④ 宮仕え中の歌

 

 

ただならじ とばかり叩く 水鶏(くいな)ゆゑ あけてはいかに くやしからまし【75番】
 
(訳)ただ事ではなさそうな叩き方でしたけれど、ただの出来心でしょう?そんな水鶏さんですもの、戸を開けていたらどんなに後悔させられたか…(昨夜、戸を開けてあなたをお迎えしなくて本当によかったわ)。

 
 
『紫式部日記』によれば、中宮・彰子への初お目見えは寛弘二(1005)年か三年の年末。
 
が、出たかと思うとすぐに実家へひきこもります。
 
 
彼女は内裏での女房づとめを「憂し(=つらい)」と表現していました(しだいに中宮の信頼を得てバリキャリになりますが)。
 
 
女房をしていると、この歌のようなシチュエーションはわりと日常茶飯事なのです。人との応対も多く、派手にみられがちな仕事でもあって、最初はやりたくなかったのでしょうね。
 
 
日記や絵巻によると、ここで紫式部の部屋の戸を叩いた水鶏=寝所に入れてくれと言ってきた男性は、道長です。
 
 
当時、主人が女房に手をつけようとしたり浮名を流すことはよくありました(…)。
 
 
身分が違いすぎており、道長の正妻(=倫子)や、娘の彰子の機嫌をそこねることもなさそうです(たぶん)。
 
 
道長が紫式部とどうなろうと、倫子サマの地位はゆるぎませんしね…。

 
 

いかにいかが 数へやるべき 八千歳(やちとせ)の あまり久しき 君が御代(みよ)をば【88番】
 
(訳)五十日(いか)の祝いの今日、いかが(=どのようにして)お数えいたしましょう。幾千年も続くにちがいない、若宮がお治めになる世を。

 
 
彰子が生んだ皇子・敦成(あつひら)親王の生後五十日のお祝いです。
 
 
敦成親王はのちに後一条天皇となります。
 
 
道長が娘を入内させたのは、娘に天皇の子を生んでもらい、やがてはその子を帝位につけ新しい天皇の外祖父として権力をふるいたいがため。
 
やっと男の子が誕生したので道長はウハウハです。
 
 
日記での紫式部は、摂関政治への野望をギラつかせる道長とちがい、産後の彰子の体をちゃんと気づかっています。
 
 
一方、この歌には儀礼的な性格があり(ケの歌に対してハレの歌といいます)、「いか」の掛詞を使っておめでたい出来事をことほぎました。
 
 
主人の家がさかえると、仕える女房たちの生活も安泰。その意味でも喜ばしいですね(´∀`)。

 
 

⑤ おわりに


 
以上『紫式部集』の歌をたどってきました。
 
 
多くの方にあてはまるかもしれませんが、私には、紫式部といえばネガティブ思考の漢籍オタクガール(?)といったイメージがありました。
 
 
けれど、友達をなぐさめていたり、男の人に積極的に歌を詠みかけたりと、意外な一面を発見できましたね。
 
 
興味がおありでしたら、ぜひ他の歌もチェックしてみてください♪

 
 
(参考文献:清水好子『紫式部』1973年、岩波書店)

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