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こんにちは、百華です。
 
 
『源氏物語』は帝と桐壺更衣(=光源氏の父母)の話からはじまりますね。
 
 
舞台は、宮中という意外にせまい世界。作者・紫式部の職場でもありました。
 
 
フィクションとはいえ、多くの文献や実際の事件・人物の影響を受けてこそ、リアリティのある面白さを誇っています。
 
 
というわけで、今回は桐壺更衣のモデルとして考えられる女性を5人紹介します。
 
どういったところが似ているかについても確認しましょう!
 
 
※作品の本文を引用する際は、適宜句読点をつけ足したり、漢字を平仮名にしたりして読みやすくしました。

 
 

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① 桐壺更衣のモデルは?

1. 楊貴妃

 
はじめに紹介するのは、唐(618~907年)に生きたこのひと!
 
 
揚玉環(よう ぎょくかん)は、唐の玄宗皇帝に寵愛されて楊貴妃となり、755年の安史の乱(安禄山の乱とも)の一因をつくったといわれます。
 
 
この乱は、安禄山が楊貴妃の一族(=楊氏)を政界から追い出そうとして起こしたもの。
 
 
そして、玄宗皇帝と楊貴妃の間柄を悲恋として描いたのが、白楽天(白居易)の詩集『白氏文集(はくしぶんしゅう)』の「長恨歌(ちょうごんか)」です。
 
 
「長恨歌」は日本の上流階級の間で大流行し、『源氏物語』本文にもたくさん引用されました。
 
 
また、桐壺更衣を楊貴妃になぞらえたシーンもあります。
 
 
たとえば…
 
「唐土(もろこし)にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ悪しかりけれと、やうやう天の下にも、あぢきなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃のためしも引き出てつべくなりゆくに…」
 
(唐でもこういう事から世が乱れ、不都合が生じたと、しだいに世間でも苦々しくもてあますようになり、楊貴妃の例[=安史の乱]までも引き合いに出されかねず…)
 
 
「絵にかける楊貴妃のかたちは、いみじき絵師といへども、筆かぎりあればいと匂ひなし。……なつかしうらうたげなりしをおぼし出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべきかたぞなき。」
 
(絵にかいた楊貴妃の顔かたちは、どんなに優れた絵師の作でも筆の力に限りがあるのだから、生き生きとした美しさはありません。……(それに比べて)桐壺更衣のやさしく愛らしげだったことを思い出しなさるにつけ、花の色にも鳥の音にもたとえようがないのでした。)
 
 
皇帝と楊貴妃の関係が、帝と桐壺更衣に投影されているようでもありますね。

 
 

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2. 藤原沢子(たくし/さわこ)……仁明(にんみょう)天皇の女御

 

 
仁明天皇は桓武天皇の皇孫で、54代目の帝。
 
平城天皇、嵯峨天皇、淳和(じゅんな)天皇のあとに即位しました。
 
 
その女御・沢子(たくし)と桐壺更衣の類似点は多く、以下の4つが挙げられます。
 
 
まず、すでに亡くなっていた父の身分が従五位下(もとは紀伊守)とそれほど高くないのに、寵愛をうけたこと。
 
 
病気になって里下がりをするとき、帝から輦車(てぐるま)の使用許可が出されたこと。(輦車は女御クラスの女性しか使えなかったので、桐壺更衣は破格の扱いをうけていたのですね。)
 
 
まもなく里=実家で急死したこと。
 
 
没後に三位(さんみ)の位を贈られ、身分があがったこと。
 
 
これらの点から『源氏物語』の注釈書・『河海抄』(1360年代に成立)でも、沢子が桐壺更衣のモデルだと考えられているようです。
 
 
また、沢子の生んだ時康(ときやす)親王はのちに光孝天皇となりますが、彼も光源氏をほうふつとさせる点があります。
 
 
第58代光孝天皇は、父の仁明天皇からかぞえて4代目。
 
間に文徳天皇、清和天皇、陽成天皇が即位しており、おもわぬ時期に帝位がめぐってきたようです。『百人一首』15番「君がため……」を詠んだ人物でもありますよ。
 
 
『日本三代実録』(901年)には、光孝天皇が、渤海国(698~926年)の大使や藤原仲直に占われて「天位ニ登ルコト必セリ」「天子為ルベシ」と予言された記事が。
 
 
光源氏も、高麗の人相見(にんそうみ)から帝王の相があると告げられました。

 
 

3. 藤原登子(とうし/なりこ)……村上天皇の尚侍(ないしのかみ)

 

 
村上天皇は光孝天皇の4代あとです。
 
 
醍醐天皇の流れにつづき、延喜・天暦の治(=901~957年頃の親政期)とよばれる安定した世を築きました。
 
 
村上天皇の后にたてられたのが、弘徽殿に住んだ安子(あんし)
 
彼女は『大鏡(おおかがみ)』(11世紀後半成立)でなかなかの恐妻ぶり(?)をみせ、周囲をまきこんだドタバタ劇を展開しています。
 
 
登子(とうし)はこの安子の同母妹で、村上天皇の寵愛をうけました。
 
2人の父は藤原師輔(もろすけ)。道長の直系の祖父で、摂関体制の基盤をかためたツワモノですね。
 
彼が権勢を手に入れたのも、娘・安子が入内して后にまでなり、冷泉・円融両天皇を生んだことが一因でしょう。
 
 
桐壺更衣と登子のどこが似ているかというと、帝から熱烈な愛をうけたところ、そして後宮でいじめられるときの描写です(…)。
 
 
『源氏物語』「桐壺」に、更衣が帝のもとに行くときに通る道(=ろうか?)の戸を閉め切られ、まごつくシーンがあります。
 
 
現代人には想像しにくいいやがらせですが、『大鏡』の安子はなんと村上天皇にこれをしました。
 
高貴な身分だけれど嫉妬深く、行動力があるキャラクターの安子は『源氏物語』弘徽殿の女御のモデルではないかといわれます。
 
 
また『栄花物語(えいがものがたり)』(11世紀前半成立)のなかで、登子がそばを離れないよう帝にひきとめられるところも似ています。
 
 
正式に入内した女性は、帝に四六時中へばりついたり、直接お世話したりはしなかったようです。
 
 
ですが昼も夜も一緒にいろと命じられると、位の低い女房のようなこともする羽目になり、シンドイにも関わらずまわりからやっかまれました。
 
 
桐壺更衣と登子が、このために人々の「そしり」(=非難)を受けたという表現も同じです。

 
 

4. 藤原姫子(きし)……花山天皇の女御

 

 
第65代・花山天皇は愛していた女御・忯子(しし)に先立たれたことがきっかけとなり、わずか19歳で出家。当時の天皇としてはめずらしい人生を送りました。
 
 
それも、懐仁(やすひと)親王(=のちの一条天皇)をはやく即位させたい藤原兼家(かねいえ)・道兼(みちかね)父子に急かされ、だまされたかたちで…。
 
 
そのいきさつが『大鏡』「花山院(天皇)の出家」などに書かれています。
 
ただ『大鏡』は道長びいきなので100%信用するのは考えものでしょう。
 
道兼は道長の兄にしてライバルだからか、ことさらにイヤなヤツとして強調されている気が…。
 
実は、陰陽師・安倍晴明も、この事件に少し関わっています(ワルイ意味ではなく)。
 
くわしくは『大鏡』上の「帝紀」をごらんください!
 
 
さて、道長のいとこ・忯子におされて存在感がうすめな姫子(きし)ですが、彼女も桐壺更衣のようないやがらせをうけたことが『栄花物語』からわかります。
 
しかも、人の通り道に汚物(つまり糞尿!)をまき散らすというショッキングなもの。
 
 
以下『源氏物語』「桐壺」と、『栄花物語』「花山たづぬる中納言」の一部を抜粋します。
 
「御局(みつぼね)は桐壺なり。……まうのぼり給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋渡殿(うちはしわたどの)、ここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎へのひとの絹のすそ耐へがたう、まさなき事どもあり。」
 
(お部屋は桐壺なのです。……また、(桐壺更衣が清涼殿に)お上がりになりますにも、あまり度重なる折々には、打橋や渡殿のあちこちの通り道にけしからぬもの[=汚物]がしかけてあって、送り迎えをする人々の着物のすそが台なしになり、始末に悪いこともあります。)
 
 
「帝の渡らせ給ふ打橋などに、ひとのいかなるわざをしたりけるにか、我ものぼらせ給はず、上も渡らせ給はず。」
 
(帝がお渡りになる打橋などに人がどのような事をしたのだろうか、私も参上できないし、帝もお出ましになられません。)
 
 
「あやしきわざ」「いかなるわざ」は両方とも糞尿を意味すると解されます。
 
これは神聖な宮中を汚す行いなので、単なるイジメを超えた深刻さを読み取ったほうがいいのかもしれません。
 
 
それにしても、服が汚れる前に何とかならなかったのでしょうか。また、汚物はどうやって入手したのでしょうか。気になることがたくさんです(笑)

 
 

5.藤原原子(げんし/もとこ)……三条天皇の女御

 

 
最後に、定子の同母妹・原子(げんし)を紹介します。
 
 
定子は一条天皇に愛された年上妻として有名ですが、原子はその東宮(=のちの三条天皇)に入内し女御となりました。
 
 
中関白家(なかのかんぱくけ)のお姫様として、父・道隆(953~995年)の存命中は華やかに暮らしたようです。
 
入内後も仲良く行き来した姉妹の様子が『枕草子』に残されました。
 
原子が登場するのは86・89・100・262段。
 
定子の一族をたたえる清少納言に、やはりベタ褒めされています。
 
 
さて、桐壺更衣と原子には、見過ごせない共通点が2つあります。
 
 
1つは、同じ淑景舎(しげいしゃ)に住んでいた点。もう1つは不可解ともいえる臨終の様子です。
 
 
淑景舎の別名こそ桐壺でした。
 
この部屋に実際に住んだ女性の記録がなかなか見つかっていないので、かなり有力なモデル候補といえるでしょう。
 
 
『源氏物語』「桐壺」は中関白家の没落後、つまり道長の全盛期に書かれたとされます。
 
当時「御局は桐壺なり。」の一節から、わずか数年前に亡くなった原子を思いうかべる読者がいたかもしれません。
 
 
1002年、22歳で彼女が没したときの様子は『栄花物語』だけでなく『権記(ごんき)』(藤原行成)や『小右記(しょうゆうき)』(藤原実資)など男性官人による日記にも記されました。
 
それらが伝えるのは、原子の臨終が「頓死」といえるほど急な、理由のよく分からないものだったこと。
 
 
栄華のはかなさと、宮中で不穏な出来事が起った怖さを実感するエピソードです。
 
 
桐壺更衣も、はっきりした原因が告げられないままあっという間に亡くなりました。
 
宮中で生き、若くして急死した女性のイメージがみごとに重なっています。

 
 

② おわりに


 
以上、5人の女性を紹介しました。
 
 
現在はなかなか知られていない人物もいましたね。
 
 
当時の様々な記録をたどると、たくさんの人の生きた証が浮かびあがってきます。
 
 
『源氏物語』のような物語作品はそれらを上手にとり入れ、ときには改変を加えたりして、新たな虚構の世界をみせてくれるものです。
 
 
どういった状況のもとで作品が書かれたのか。知れば知るほど、お話を読むことが楽しくなると思います!

 
 
(参考文献:吉海直人『源氏物語入門』角川ソフィア文庫、令和3年4月
『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 大鏡』角川ソフィア文庫、平成19年12月)