この記事を読むのに必要な時間は約 16 分です。


 
こんにちは。
 
 
今回は井伏鱒二(いぶせ ますじ)の代表作『山椒魚』を紹介します。
 
 
話の主人公は、両生類最大といわれるオオサンショウウオ。人間は登場しません。
 
 
この作品のような、教訓を目的とした短い物語を寓話(ぐうわ)といいます。
 
 
寓話では、人間以外の生き物を人間のようにかいている(=擬人化している)ことが多く、山椒魚や小えび、蛙は人のことばでおしゃべりしています。
 
 
彼らのせりふの言い回しがちょっと古めかしくて面白いのです。

 

スポンサーリンク

①井伏鱒二ってどんな人?


 
井伏鱒二は1898年、広島県の旧家に生まれました。
 
 
もとは画家になりたかったようですが、早稲田大学を中退してから文学を志しました。
 
 
のちに『山椒魚』となる『幽閉』で、1923年に作家デビュー。
 
 
(今の『山椒魚』に書き改められたのは1929年。)
 
 
『屋根の上のサワン』(1929年)・『ジョン万次郎漂流記』(1937年)・『黒い雨』(1965年)などの作品を残し、1993年に95歳で没しました。
 
 
ユーモラスな作風が特徴で、多くの賞を受賞。
 
 
太宰治さだまさしと仲良しでした。
 
 
また、太宰の『富嶽百景』という作品に登場しています。よければこちらの記事もどうぞ。


 
 

②『山椒魚』の簡単なあらすじ


 
頭がつかえて岩屋の外に出れなくなった山椒魚。
 
 
まわりの小魚や小えびの行動に注目し、辛辣(しんらつ)な発言をくりかえす。彼らを馬鹿にしつつ、自分のおかれた状況からぬけだそうとするも上手くいかない。
 
 
悲しみのあまり根性がねじ曲がってきた山椒魚は、岩屋にまぎれこんだ蛙と無益なケンカをはじめる。だが、それにも疲れた彼らの間には……。

 
 

スポンサーリンク

③『山椒魚』の詳しいあらすじ

1.山椒魚の悲しみ


 
「山椒魚は悲しんだ。」
 
 
冒頭では、頭が大きくなって岩屋の外に出れない悲しみがえがかれます。
 
 
2年ぶりに出ようとして始めて、自分が大きくなりすぎていたのに気づくのは、なんともうかつですが……。
 
 
彼のすみかである岩屋は、ほの暗く、狭く、ほかに出口のないものでした。
 
 
もはや体をゆり動かすことしかできません。
 
 
★ここで注目したいのは頭がつかえたという点です。
 
 
大きくなりすぎた頭は、そこにつまった知識だけをふりかざす近代知識人の象徴と考えられます。
 
 
その頭をコロップの栓に例えるところなど、なんだかユーモラス。
 
 
山椒魚は「俺にも相当な考えがあるんだ。」と言いますが、実際にいい考えは出てきません。
 
 
虚勢をはり、現実逃避しているのがわかる発言です。

 
 

2.めだかたち


 
岩屋の天井にはコケやカビが生えていましたが、山椒魚はこれらを嫌がります。
 
 
その理由は2つ。
 
 
どこまでも繁殖して手に負えないうえ、自分の意志がないように感じられたからです。
 
 
逆に彼が好んだのは、ほの暗い場所(岩屋の中)から明るい場所(岩屋の外)をのぞき見することでした。
 
 
水底の藻や、多くのめだかが見えます。
 
 
群れになって泳ぐめだかたち。だれか1匹が左右によろめくとたちまち皆がつられる様子を見て、山椒魚は思わず嘲笑(ちょうしょう=あざけって笑うこと)しました。
 
 
「なんという不自由千万なやつらだろう!」
 
 
「不自由千万なやつら」つまり、これらのめだかたちは自分の意志をもたず大勢に流される存在
 
 
時代に流されて全体に迎合する一般大衆を例えています。
 
 
一方、ほの暗い場所から彼らを見る山椒魚は、社会から距離をおいた場所から世間を批判する理屈っぽい知識人のようです。
 
 
★明治時代以来、文化や思想がやたらと西洋に感化されましたから、西洋批判をしているともとらえられます。作者の風刺がピリッときいていますね。
 
 
水面の渦(うず)は、山椒魚の逃れられない運命をあらわしています。

 
 

3.山椒魚と小えび


 
ある夜、小さなえびがまぎれこんできました。
 
 
たくさんの卵をおなかの中にかかえた小えびは、山椒魚の横っ腹にくっつきます。腹を岩石か何かと間違えたのでしょう。
 
 
山椒魚の小えびに対する思いは、なかなかにひどいものでした。
 
 
「この身持ちの虫けら同然のやつは、……」
「くったくしたり物思いにふけったりするやつはばかだよ。」
 
 
見当違いのことを考えこむ無知なやつということでしょう。
 
 
いつまでも考え込んでいるほど愚かなことはないではないか。
 
 
こう思い直した山椒魚は、脱出しようと奮闘するも失敗。小えびに笑われてしまいます。
 
 
「えびという小動物ほど……よく笑う生物はいない」というのは、えびが体をまるめて笑う姿と、人間がおなかをかかえて笑う姿が似ているからでしょうか。

 
 

4.絶望


 
外に出れず、絶望した山椒魚はついに涙を流しました。
 
 
「ああ神様!あなたは情けないことをなさいます。」
 
 
自分の不注意からこの状況になったのに、責任をほかになすりつけていますね。
 
 
あとに続く「諸君は、~」という語りは読者への問いかけです。作者が、山椒魚の気持ちをとおして共感を求めています。
 
 
ここでは、囚人ややくざという一般社会から隔離されたものに例えられる山椒魚。
 
 
外で遊びまわるみずすましや蛙を「感動の瞳」で見つめるうち、嫉妬の感情に苦しめられます。
 
 
いまの彼にできることは、目を閉じることだけでした。自身を「ブリキの切りくず」つまり、何の役にも立たないものと思うのは悲しいことです。
 
 
狭い所に閉じこめられているのに、目を閉じると無限の闇が広がります。この対比も残酷ですね。
 
 
山椒魚はこうして孤独にさいなまれます。

 
 

5.蛙との結末


 
悲しみのあまり彼の性質は変わってしまいました。意地悪な悪党になってしまったのです。
 
 
自由の象徴でもあった蛙が岩屋に迷い込んだとき、山椒魚は蛙を岩屋に閉じこめてしまいました。
 
 
そして、一生涯ここに閉じ込めてやるんだと呪いの言葉を吐きます。
 
 
これは、他者を自分と同じ不幸におとしいれることで自分をなぐさめる行動です。
 
 
1年の月日が過ぎ、冬眠から覚めた2匹は相手と同じ言葉をぶつけ合い、夏じゅう口論していました。
 
 
さらに1年が過ぎた2年目の夏には、彼らは衰弱しお互い黙り込んでいました。しかし、杉苔の花粉の散る美しい光景を見た蛙は「ああああ。」と感動の溜息をもらします。
 
 
蛙は、美しいものに感動する心をまだ失っていなかったのです。そして、衰弱して動くことすらできなくなっても、山椒魚を恨んでいません。
 
 
この2匹は、最後にただ「和解した」といえるでしょうか(そういう解釈も多いです)。
 
 
「今でもべつにお前のことを怒ってはいないんだ」
 
 
蛙は山椒魚を恨んでいないどころか、前から山椒魚のことを怒ってなかったような言い回しです。
 
 
蛙のほうが高みから山椒魚を見て、哀れんでいたようにも思えます。
 
 
蛙が死んでしまった後、山椒魚は本当に独りぼっちになり、真の孤独を味わうでしょう。そうして1人息絶えることになるのかもしれません……

 
 

④おわりに


 
山椒魚はずっと頭がつかえっぱなしでしたね。人間以外の生き物の話でしたが、なかなか切ない話でした。
 
 
山椒魚の大きな頭が示すのは、頭は良いのに何もしない理屈っぽい知識人(の一部)です。
 
 
寓話の面白さは、その背後にあるメッセージを読み解くことで深いテーマが見えてくる点だと思います。
 
 
 
実は『山椒魚』は、違う結末のものが存在します。
 
 
1985年(昭和60年)に『井伏鱒二自選全集』が新たに刊行されたとき、井伏鱒二自身が『山椒魚』の最後の10数行を削除しているのです。
 
 
そうすると、蛙と山椒魚の最期の話がスポッとなくなってしまいます。
 
 
しかし、また後で、井伏本人が削除したことを後悔していたともいわれます。
 
 
結末をどうするかかなり迷っていたのでしょう。
 
 
そのあたりも踏まえて、蛙と山椒魚のその後を考察すると面白いと思います。

 
 
【ライター:百華】


【関連記事】