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教科書にものっていて有名な、太宰治の『富嶽百景』を紹介します。
 
 
私は、太宰といえば『人間失格』の暗いイメージがあったので『富嶽百景』の明るさにおどろいた記憶があります。
 
 
彼は、いっしょにいると「ちょっと厄介だな……」と思ってしまいそうな人です…。
 
 
しかし、作家としては優れた人で、今も根強い人気がありますね。

 
 

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1、太宰治ってどんな作家?

 

 
太宰治の本名は津島修治といいます。青森の裕福な家に生まれました。父親は貴族院議員を勤め、長兄は後に青森県知事になった名家です。
 
 
大先輩の芥川龍之介にあこがれ、彼の名を冠した芥川賞をほしがっていました(ついに受賞できなかったようです…)。
 
 
1936年のデビュー作『晩年』が、井伏鱒二(いぶせ ますじ)に評価されました。井伏鱒二は『富嶽百景』(1939年)に登場します。
 
 
その後、『女生徒』(1939年)、『走れメロス』(1940年)、『津軽』(1944年)などを次々と発表します。太宰が公私ともに一番安定していた時期です。
 
 
戦後は『斜陽』『人間失格』を書き、人気絶頂のなか1948年6月19日に亡くなりました。
 
 
太宰の命日は桜桃忌(おうとうき)といわれ、その日は今でも多くのファンが三鷹に集まります。

 
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2、『富嶽百景』を一言でいうなら

 

 
『富岳百景』を一言でいうと、甲州の御坂峠(みさかとうげ)をおとずれた「私」が、富士山という絶対的な存在との対話を通して再生する物語です。
 

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3、主な登場人物

 
 
●私:執筆活動のため、御坂峠の天下茶屋(てんかぢゃや)に滞在する。太宰治本人をモデルにしたと思われる人物。
 
 
●井伏鱒二:「私」の先輩で、見合いの世話をしてくれる。
 
 
●天下茶屋の娘:茶店ではたらく娘。15歳。
 
 
※主人公の「私」が、過去の自分について皮肉を込めつつわざと面白おかしくかいている(=自己戯画化)ところが特徴的です。

 
 
ちなみに、井伏鱒二は実在した作家で、『山椒魚』などの作品を残しています。よろしければこちらもどうぞ。


 

4、『富嶽百景』の詳しいあらすじ

①富士への期待

 

 

昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で、私は、かばん一つ提げて旅に出た。

 
 
「私」は、みじめな生活から抜け出し、作家として再起するため甲州への旅をはじめます。
 
 
ここで、様々な富士のとらえ方を確認しておきましょう。
 
 
実際の富士      
➔歌川広重や葛飾北斎の絵のようではなく、「のろくさ」。
 
 
東京での富士のイメージ
➔くるしい…生活のみじめさの象徴?
 
 
御坂峠から見える富士 
➔注文どおりの景色…俗っぽくて、恥ずかしい。
 
 
私は富士に大きな期待をよせ、なにか新たな発見を見出したいと感じているのです。
 
 
「のろくさ」と悪口をいってみるのも、期待の裏返しだと読みとれそうですね。

 
 

②娘さんとの見合い

 

 
私は、御坂峠をひきあげる「井伏氏」のお供をして甲府へ。そこである娘さんと見合いをすることになっていました。
 
 
※この頃太宰は、井伏鱒二の世話で石原美知子という女性と結婚しており「ある娘さん」は彼女をモデルにしたと思われます。
 
 
最初は、緊張とはずかしさのあまり(?)娘さんの顔をまともに見ません。しかし「真っ白い水蓮の花」に似た富士の写真を見たことで、彼女との結婚を決めます。
 
 
「白」の清純なイメージと娘さんとを重ね合わせたためでしょうか。
 
 
そのときの富士のおかげで、結婚という重大な決断ができました。

 
 

③新しい美しさ

 

 
茶屋の娘さんにたたき起こされて、私は新たな発見をしました。
 
 
みごとな雪化粧をした富士を見て「御坂の富士も、ばかにできないぞ」と、俗でない美しさを称賛します。
 
 
筆者の文学への思い(④で説明)にも通じる部分です。
 
 
また、私は富士によく似合う花として月見草(つきみそう)を気に入り、自分だけに見えるように茶店の背戸(せど)にまきます。
 
 
それは、河口村に向かうバスの中で、場の空気に流されず富士を見なかった「老婆」とのエピソードにもとづく考えでした。
 
 
富士に嘆声を発したサラリーマンや芸者ふうの女は、いわば俗な大衆の象徴です。
 
 
一方、富士を見ず「高尚な虚無の心」をもつ老婆と私は、反俗を象徴しています。
 
 
そんな老婆が指し示した月見草は、富士の魅力をひきたてて、(良い意味で)対峙するものでした。
 
 
「富士には、月見草がよく似合う。」の一文は有名です。
 
 
※ここのちょっと芝居がかったような大げさな表現にも、作者の「自己戯画化」がひそんでいそうですね。

 
 

④「私」の文学観

 

 
私は、「明日の文学というもの、いわば、新しさというもの」に思い悩みます。
 
 
私にとっての文学とは、新しさ、「単一表現」の美しさです。
 
 
だから「棒状の素朴」と表現されるような何の工夫もない富士の姿は、自分の文学の中にあってはならないものであり、やはりまちがっているのでした。
 
 
独自の新しい表現をつくりたい、という思いがあるからです。

 
 

⑤富士の偉大さと、「私」の再生

 

 
10月の末、遊女たちの団体が息抜きのためか御坂峠へやって来ます。
 
 
私はそれを見て、どうしようもない痛ましさや無力感におそわれました。東京でつらい体験をしたときと似た感情を味わったのです。
 
 
しかし、今は富士がいます。

 

富士に頼もう。突然それを思いついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、

 
私は自分のことをちっぽけな存在だと感じていますが、それだけに富士の偉大さや頼もしさが強調されますね。
 
 
ここから、私は3人の女性に救われます。
 
 
1人目は見合いをした娘さんのお母さんです。
 
 
彼女は、結婚するにあたって「愛情と、職業に対する熱意さえ」あれば十分だと言ってくれました。それは私が唯一よりどころとしているものです。
 
 
2人目は、自分の過去をいっさい尋ねない、結婚相手の娘さんです。生活を1からやり直せる〈再生〉のうれしさとありがたさを感じます。
 
 
3人目は天下茶屋の娘さん。執筆の仕事を支え「たくさんお書きになっていれば、うれしい」と、私の努力を純粋に認めてくれます。私はそこに、彼女の美しい心をみました。

 
 

⑥旅立ち

 

 
寒さがきびしくなってきた11月、私は山を下ることを決意します。
 
 
2人の「若い知的の娘さん」から写真を撮ってほしいと頼まれますが、私は彼女らを映さずに富士山だけを大きく映しました。

 

富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。

 
カメラのレンズ越しに、富士と最後の対面をします。お別れのあいさつと、感謝の気持ちがこもった表現です。
 
 
明くる朝に見た富士はほおずきに似ていました。富士との対談が終わり、それまでと違うものに見えたのですね。

 
 

5、まとめ


 
『富嶽百景』は、絶対的な存在=富士山と対話することで、自分を見つめなおし、再生する旅を描いていました。
 
 
ちなみに、太宰治は昭和13年に本当に天下茶屋に滞在し、井伏鱒二の媒酌で結婚式も挙げています!
 
 
その後、心の平穏(つかの間の平穏だったようですが……)を得て、この『富嶽百景』をはじめとする力作を書いたのです。
 
 
作品の背景にあるこうした事情を知ると、より楽しんで読むことができそうです!

 
【ライター:百華】
 
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