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「和のお稽古」と聞くと、あなたは何を思い浮かべますか?
 
 
着付け、和楽器、日舞、書道、茶道、華道・・・
 
 
中でも茶道は、日本文化の集大成と呼ばれます。
 
 
茶道というより「茶の湯」というほうが、わびさび感があって私は好きなんですけど・・・
 
 
そう呼ばれる根拠について、みていきましょう。

 

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「茶道」は元は「禅」から始まった?

 

 
日明貿易が盛んになった室町時代、中国の文化や美術が日本にたくさん入ってきました。
 
 
平安時代まで、異国の文化に触れられるのは、特権階級の貴族(公家)だけでした。でも、室町時代に入ると、「応仁の乱」などが起こり、貴族が没落する時代がやって来たのです。
 
 
戦火で屋敷を焼かれた公家たちは、縁者を頼って他の地方に落ち延びていきました。そうして彼らは都の文化や芸術を地方に伝え、「小京都」と呼ばれる町が生まれたのです。
 
 
一方、京の都では将軍の力が急激に弱まり、下の者が上の者を倒す下剋上の世の中に移っていきました。群雄割拠の戦国時代の始まりです。
 
 
戦国大名たちは、武士階級の人々です。そして、当時中国から入ってきた「禅宗」は武士の気質によく合い、多くの武将がそれを取り入れたのです。
 
 
そして、戦国大名は禅と結びついた「茶の湯」を広める人たちを、指南役として召し抱えるようになりました。
 
 
茶の湯の大成者・千利休は、織田信長の茶の指南役をしていました。信長が「本能寺の変」で討たれてからは、豊臣秀吉に仕え、最期は切腹して果てます。
 
 
この時代、有力な武士は一国の領土よりも「茶釜」のほうが価値があると思っていたそうです。
 
 
まさに「茶の湯バブル」ですね。すごいです。「茶道」が一大ブームを、引き起こしていたと分かります。
 
 
「茶の湯」を「お茶のおもてなし」から「日本文化の集大成」にまで引き上げた第一人者は千利休といわれます。

 

茶の湯の大成者「千利休」のおもてなしの心

 

 
千利休は「茶の湯」をただお茶を飲む作法としてだけでなく、お客さんが通って来る庭(露地)をしつらえ、季節の花を生け、そのときにふさわしい掛軸を飾り、茶器(茶碗、釜、水差し)を選び、ときには懐石を用意し、趣向をこらした茶室をセッティングするという空間すべてをコーディネートするものにしました。
 
 
この一文の中に、いろんなものが詰め込まれていますね。
 
茶道
華道
庭→庭園造り
掛軸→書道・水墨画
茶器→陶芸
懐石料理
茶室→究極に無駄を省いた書院造

 
 
盛沢山ですね。
 
 
それぞれが一つの文化や芸術として独立させることができます。
 
 
華道、書道、水墨画、陶芸家、料理人、庭師・・・
 
 
それらすべてを合わせたものが「茶道」、つまり、「日本的な美の世界」そのものを空間に表現したものを「茶道」として確立させたのでした。
 
 
まさに「日本文化の集大成」です。
 
 
茶道は「もてなし」と「しつらい」の美学といわれます。
 
 
けっして「私はおもてなしの心を大切にしてます」と押し付けるものではなく、「お客さんに心をつくしたおもてなしをしていただけた」と感じてもらうことが大切なのです。
 
 
そして、客の側にも、もちろんそれに応える作法や心配りというものが必要です。
 
 
「亭主」と「客」の間に通う人間的なぬくもり、それを「和敬清寂」の精神といいます。この精神を、「茶道」ではとても大切にしているんですよ。
 
 
それがこの現代のグローバル社会の中で、日本人の気質として残っているように思えます。

 

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おわりに

 

 
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
 
 
「茶道」で伝えたい大切な事は「型」「作法」をとおして「こころ」を伝えようということなのでしょう。
 
 
「茶道」の先人たちが築いて守り続けてきた日本の「こころ」は、今も私たちの思想や日常のちょっとしたふるまいの中に息づいています。
 
 
あいさつや冠婚葬祭、贈答のマナーは、日本人特有のものがありますね。
 
 
みんなが少しずつ、相手のことを思いやる気づかいができると、優しい社会になると思います。
 
 
でも、最近の都会の人は、みんな忙しそうにしていますね。朝の出勤時の都会の駅なんて、怖いです。それだけ、みなさん大変なのでしょう。
 
 
そんな時代だからこそ、こういうものに触れていたいと思います。

 
 
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