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こんにちは。
夏目漱石の代表作の1つ『こころ』は、著作権フリーになった今も買われ続け、売り上げ数総は1000万部を超えるといわれます。
明治の作家の作品が、これだけ今も読まれ続けているというのは、すごいことですね。
『こころ』のあらすじはこちらです。
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これに続くのは、太宰治の『人間失格』でしょうか。
こちらも650万部は軽く超えているそうですよ。
今も尚、若い人に親しまれている素晴らしい作品なのですが、『こころ』の場合、課題図書になっている高校が多いですね。
こんな暗い作品を、高校生に強制的に読ませてよいのかどうか、ちょっと疑問ではありますが、名作であるのは間違いありません。
目次
『こころ』の背景にあるもの
『こころ』は、「修善寺の大患」の後に書かれた、後期三部作の終曲の作品です。
そのあたりの事情は、こちらをどうぞ。
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漱石の個人的な問題として、「人間のエゴイズム」が1つの大きなテーマとなっています。そして、外せないのは、社会的な問題としての「明治の精神の死」です.
この2つがポイントとなります。
「エゴイズム」の問題を追及
夏目漱石の作品には、男女の「三角関係」をテーマにしたものがいくつかあります。『こころ』の他、『それから』『門』などがそうですね。
これは、若い頃の漱石自身の体験からきているといわれます。
尼寺で下宿をしていた若い頃、漱石は、和歌や日本画にも優れた作家の「大塚楠緒子」という女性と思相相愛だったそうです。
大塚楠緒子は、親の決めた相手と結婚(婿養子に迎える)してしまいますが、その相手が皮肉にも、漱石の親友の「小屋保治」でした。保治は『吾輩は猫である』の美学者「迷亭」のモデルといわれます。
この話は、手紙など本人が残した物証がないため、あくまで仮説なのですが、多くの漱石の弟子たちが、楠緒子が漱石の「永遠の女性」だと語っているのは確かです。
「修善治の大患」後の静養中に、漱石は、彼女の訃報を聞きます。そして、そのとき詠んだ句が、こちらです。
「ある程の 菊投げ入れよ 棺の中」(『硝子戸の中』)
ちなみに、彼女のお墓は、Kのお墓と同じ「雑司ケ谷霊園」にありますよ。
もう一つ、漱石が私的な事件で、気に病んでいたことがあります。
それは、漱石が東京第一高校で英語教師をしてたときのことです。
担当していたクラスの「藤村 操」という生徒が、華厳の滝に飛びこみ自ら命を絶つという事件が起こりました。
原因は、もともと持っていた厭世観に失恋などが重なったものと思われますが、その事件の直前の授業で、漱石は彼を強く叱責していたのです。
自分が叱った事だけが原因ではないけれど、もしかしてきっかけになったのかもと、思ったことは間違いないでしょう。
この事件は、漱石の頭から離れることはなく、『吾輩は猫である』『草枕』の中でも言及しています。
「先生」が抱えていた「エゴイズム」は、漱石が持っていた課題でもあります。
「明治の精神」の喪失
乃木大将の殉死は、「先生」の最期の決断のきっかけになりました。
「明治の精神」、これが平成の世に生きる私たちには、なんとも分かりにくいですね。解釈が分かれるところだと思います。
漱石が生まれたのは慶応3年、翌、慶応4年が明治元年ですから、まさしく明治という時代に生きた人です。
「明治時代」は、江戸から近代、つまり封建主義から個人主義への移行期です。
日本が、封建的な考えを払拭できないまま、欧米列強による植民地化を回避するために、富国強兵に努め、西洋の近代文明を模倣してきた時代です。
つまり、欧米化・近代化を掲げながら、封建的・前近代的な明治天皇を擁する自己矛盾を抱えた社会であり「精神」でありました。
その「明治の精神」を、乃木大将の殉死は、典型的な例として社会に知らしめたのです。
『こころ』の「先生」は、この事件に際して、自分の中の自己矛盾を自覚させられます。
今後、本格的に近代化が進むであろう「大正期」に、「明治の精神」を持ったまま生きることはできません。
それで、「先生」は「明治の精神に殉死」することを選びました。
漱石は、同じ「明治の精神」を持つ「先生」を、自分の代わりに滅ぼしたのでしょう。
乃木大将の殉死は、新しい思想「個人の尊重」を掲げる白樺派の作家たちには、時代遅れのものと嘲笑されます。
しかし、同じ明治の文豪・森鴎外は、この事件を漱石と似たように受け止め、『興津弥五右衛門の遺書』という作品を残しています。
感想文を書くときのポイント
学校の感想文の場合、レビューのように距離感のある感想を書くのは、よくありません。
なによりも、その作品を読んで自分の学びになったことを伝える事が大切です。
自分に引き寄せて、先生(K)はこうしたけれど、自分ならこうするだろうとか、同じような「自分の体験」を書いて、それについて自分はこう思ったということを書いていきます。
その上で、最後に、『こころ』を読んで気づかされたことなど、これからの自分の学びにつながることでまとめると、しっかりした結びになります。
「あらすじ」や「遺書の内容」をダラダラと書かないでくださいね。
それと、この話はおもしろくなかったと批判するだけというのも、よくありません。(学校感想文の場合ですよ。)
他人の文章を、批判し否定するのは、簡単ですから。
ただ、そこから学びを得ることが大切なので、否定しながらも気づきにつなげることができれば可です。(少し展開が難しくなります。)
まずは、登場人物の1人に中心を決めて、感情移入して書くとよでしょう。
1、人を信用できなくなったこと
「普通の人が、いざという際に、急に悪人に変わるから恐ろしい」という言葉が、印象的です。
感想文の主題にしやすいポイントです。
長年生きていると、いい人だと思っていた人に利用されたり、いざというときに裏切られたりすることが、残念ながらあります。
そんな目にあったとき、純粋な人ほど、深い絶望感を味わいます。
叔父に裏切られた「先生」のように、人間不信になることもあるでしょう。そして、自分は、そんな卑怯な人間じゃないと思います。
でも、『こころ』では、普通のすべての人が、いざというときそうなる可能性があることを示唆しています。
すべての人に「善」と「悪」の心がある。(これも自己矛盾ですね。)
そういう体験で書ける人は、それをテーマにするとよいでしょう。
先生の側でもKの側でも、書けますね。
あまり思い出したくないことかもしれませんけど・・・
2.遺書を送られた「私」目線で書く
知り合いのおじさんからすごく分厚い「遺書」を送られた「私」の気持ちになってみるというのも、今風でよいのではないかと思います。
この「遺書」、めちゃくちゃ気が重くなる内容の、とんでもなく長い告白文ですね。
しかも、最後に、「過去を善悪ともに他(ひと)の参考に供するつもり」としながら、「妻が生きている間は、あなた限りに打ち明けられた秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい。」と念を押される、たまったもんじゃありません。
「私」は数年前に知り合った赤の他人です。
困らないですか?
もし、あなただったらどうするでしょう。
この遺書が自分の人生の参考になると思ったら、そこを掘り下げてみましょう。
女性なら「奥さん」目線もいけるかも。
ずっとそばにいる「奥さん」が、蚊帳の外ですね。
私が奥さんなら、なんで自分(妻)ではなく「私」に言うんだ、さっさと打ち明けろとか思いますが、そんなことを絶対しないのが「明治の男」です。
そういう時代による考え方の相違を軸にするのも、おもしろいかもしれません。
でも、ちょっと変わった切り口で書く場合、添削する先生に柔軟性がなければ、リスクを負ってしまいます。気をつけてください。(´・ω・)
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