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こんにちは。
明治から大正の大文豪といえば、やはり夏目漱石先生‼
夏目漱石は、文豪として知られますが、偉大な英語教育者でもありました。
今回は、「夏目漱石」について、生涯と有名エピソードをご紹介します。
夏目漱石とは?
夏目漱石は、明治後半から大正初期に活躍した大文豪です。彼は、英語の先生で、後に小説家デビューしました。
江戸から明治へと移行した日本では、文章は国家主導で成熟していかず、書き手たちの手作りで発達していったのです。
明治時代の作家の中でも、夏目漱石の文章は際立って「様々な主題を表現できる多様性のある文章」だといわれます。
つまり、いろんなジャンルの文章に応用できる文章だったのです。
司馬遼太郎は「言語における感想」の中で、泉鏡花の文章などと比べると漱石の文章は「共有化」されやすい性質を持っていると書いていますよ。
泉鏡花の文章は、「恋」や「幻想」は表現できても、「経済」や「日本の将来」は論じられにくいということなのです。(泉鏡花の文章が劣っているという事ではありませんよ。鏡花の文章の文学的価値は別のところにあります!)
そんな漱石を慕って、多くの門下生が集まりました。
彼らは「漱石の文章」に感化され、それを共有して発展させていったのです。
「漢詩」と「英語」
夏目漱石、本名「夏目金之助」は、慶応3年、東京の牛込で生まれました。8人兄弟の末っ子で、すぐに里子に出され、その後、養子に出されます。
早くから「漢詩」に親しみ、「二松学舎」に入学して、ここで儒教的な倫理観や東洋的な美意識を身につけます。
小学校から大学まで、成績は常にトップの秀才でした。
その後、「漢学」の時代が終わったことを悟り、改めて「英語」を習得します。
そして、東京帝国大学英文学科に入学します。
夏目漱石のいろんなエピソードや名言は、こちらです。(*^^*)
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英語教師として
東大英文科に入学したころから、漱石は神経衰弱に悩まされるようになりました。
そして、大学院を出ると、松山中学に英語教師として赴任しました。この体験が、後に『坊っちゃん』を生みます。
その後、第五高等学校(熊本)に教授として赴任しました。
ロンドン留学
漱石は、第五高等学校の教授のまま、「文部省留学生」としてロンドンに留学します。
しかし、英語の著作で英国人と競争したいと夢見ていた漱石のロンドンでの日々は、「もっとも不愉快な2年間」になります。
そして、西洋との隔絶感を痛感し、強度の神経症に陥ってしまうのです。
日本で「漱石発狂セリ」との噂が立ったほどなので、相当ひどかったのでしょう。
作家・漱石誕生
帰国後、漱石は東京大学の英語講師になります。神経症はよくならず、度々、妻子に暴力を振るうようになりました。
そんなとき、1匹の「猫」が家に迷い込んできました。
ちょうどその頃、子規を通して知り合った高浜虚子のすすめで小説を書く決心をします。そして、雑誌「ホトトギス」に連載された、漱石初の小説が、先程の「猫」からインスピレーションをもらった『吾輩は猫である』です。
それから漱石は、数々の作品を生み出すこととなります。
当時、最盛期だった自然主義に同調しなかったため、「余裕派」と呼ばれました。
そして、40歳のとき、内定していた東大教授の職を捨てて、ついに職業作家の道を選びました。
作品
夏目漱石の作品と言えば『こころ』『坊ちゃん』『吾輩は猫である』などが有名ですね。
『吾輩は猫である』は、漱石の最初の作品です。
『坊っちゃん』は、ライトノベルのような感覚で読める楽しい作品です。
『こころ』は、高校生の読書感想文でおなじみですが、漱石の後期三部作の1つです。
ここで夏目漱石の「三部作」をおさらいしておきましょう。
「前期三部作」➾『三四郎』『それから』『門』
「後期三部作」➾『彼岸過迄』『行人』『こころ』
「前期」と「後期」の間で、夏目漱石は、胃潰瘍で生死の狭間をさまよう経験をします。いわゆる「修善寺の大患」と呼ばれるものです。
このとき漱石は800gもの吐血をし、一時、危篤状態に陥りました。
また、同じ時期に、社会では「大逆事件」が起こっています。
これらの出来事が、その後の漱石の作品に影響を与えたことは間違いないと思われます。
「修善寺の大患」により、人間の存在と「自己生存」の意味について深刻に考え、「大逆事件」により、自分の生涯そのものである「明治日本の社会」と日本の未来について、根本的に考え直すこととなりました。
その他の代表作のあらすじ感想はこちらをどうぞ♪
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交遊関係
正岡子規
漱石22歳のとき、正岡子規と出会います。
夏目漱石と正岡子規は、出会ってから子規が亡くなるまで親友でした。2人には、「落語」という共通の趣味があったのです。
子規が「漢詩文集」を編んだことに刺激され、自らは「漱石」と号して、俳句を始めます。子規は漱石の俳句の先生でもありました。
漱石は子規が結核にかかったことを知ると、病気がうつる危険も顧みず、自分の家に彼を呼びよせ、2カ月にわたって看病しました。
漱石がロンドンにいるとき、子規が「僕ハモウダメニナッタ」と手紙を送った話も、よく知られています。
「木曜会」
文部省も認める天才英語教師でありながら、ユーモアのセンスもあった漱石の周りには、常に彼を慕う教え子の姿がありました。
そして、教職を辞退した後も、毎週木曜日には、教え子たちと集う「木曜会」という会合を開いていました。
★芥川龍之介
芥川龍之介は、「木曜会」に集う門下生の1人でした。
芥川龍之介は、夏目漱石と志賀直哉を師として尊敬していたようです。
雑誌『新思潮』に『鼻』を発表したとき、漱石はわざわざ手紙を送り絶賛しました。
それがよほどうれしかったのか、龍之介はすぐに久米正雄にその手紙を見せに行ったそうですよ。(*^^*)
★内田百閒
『阿呆列車』シリーズで知られる内田百閒も門下生の1人で、「漱石を崇拝していた」(←本人がそう書いている)ことで有名です。
『吾輩は猫である』を読んで、漱石を銭湯までストーキングし、門下生となってからは、漱石の私物集めに精を出したりした、熱狂的ファンです。
中でも、漱石の「鼻毛コレクション」は、よく知られているエピソードです。漱石は執筆に憤ると鼻毛を抜いて並べる癖があり、それを当時、校正を手伝っていた百閒が、集めて大切に保管していたそうなのです。
佐藤春夫に、これを自慢したそうですよ。( ̄▽ ̄)
夏目漱石の年表
・1867年(1歳)
江戸牛込で誕生。
・1868年(2歳)
塩原昌之助の養子に。
・1876年(10歳)
塩原夫妻が離婚。
→生家に戻る。
・1879年(13歳)
東京府第一中学校入学。
・1888年(21歳)
夏目姓に復帰。
第一高等中学校本科に入学。
正岡子規と出会う。
・1890年(24歳)
東京帝国大学英文学科に入学。
・1893年(27歳)
東京帝国大学英文学科卒業。
→高等師範学校の英語教師に。
・1895年(29歳)
愛媛県尋常中学校に赴任。
・1896年(30歳)
熊本県第五高等学校に赴任。
・1900年(33歳)
イギリスに公費留学。
・1903年(37歳)
イギリスより帰国。
第一高等学校と東京帝国大学の英文科講師に。
・1905年(39歳)
「吾輩は猫である」出版。
・1907年(41歳)
朝日新聞社に入社。
・1910年(44歳)
「修善寺の大患」
→伊豆の修善寺で大量吐血
・1916年(50歳)
病没。
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