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こんにちは。
 
最近、地震、台風と自然災害が続きますね。
 
 
わが家は大阪府北部地震の震源近くで、台風の通り道に当たります。
 
 
幸い家は無事でしたが、あれほどの揺れと雨風です。きっと見えないところが、傷んでいるでしょう。
 
 
災害のたびに思うのが、「物を持たない人」のほうがダメージが少ないなーということです。家や物に強い執着心を持つ人ほど、それを失ったときのショックは大きいでしょう。
 
 
そんなとき思い浮かぶのが、シンプルライフを貫いた先人たちです。その中でも、日本初の災害文学とまで言われる鴨長明の「方丈記」は、今も昔も人々の想いは同じなんだなーと考えさせられます。
 
 
鴨長明は、あまり人好きのしない不器用な人だったようです。今日は、そんな鴨長明が「方丈記」に記した「都を襲った5つの災害」についてお伝えします。
 
 
【関連記事】⇒★鴨長明と「方丈記」

 
 

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川の流れのように人生も流れゆく

 

 
「ゆく川の流れは絶えずしして、しかも、もとの水にあらず」
 
 
人の人生も川の流れのように、過ぎてゆきます。水面の泡のように、大切な家も財産も人の命も、儚く消えていくのです。
 
 
鴨長明が暮らしていた頃の京の都は、幼い頃は平清盛が治めていた宝石箱のように美しい都でした。
 
 
でも、今から約800年前、京都は「5つ」の大きな災害に見舞われたのです。
 
 
また、このころ源氏が兵を挙げ、激動の「源平の争乱」に突入していった時期でもありました。

 
 

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(1)「安元の大火」大火災で内裏が灰に!

 

 
ひとたび大きな火災に見舞われると、家も財産も、ときには命さえ奪われてしまいます。
 
 
安元三年(1177年)の春、都の東南で発生した火災が京の町に広がり、都の三分の一が灰になってしまいました。
 
 
その被害は凄まじく、朱雀門(すざくもん)、大極殿(だいごくでん)、大学寮、そして帝の住む大内裏(だいだいり)までが炎に包まれました。
 
 
火元は、旅人を泊める粗末な仮屋でした。ささいな火の不始末が原因だったのです。
 
 
この大火災を目の当たりにした鴨長明は、こう記しています。
 
 
「人が集まる所は、火災の危険も高まる。多くの人はそんな危険な場所に家を建てようとして、生涯かけてためたお金を投入し、苦労に苦労を重ね神経をすり減らしている。それは愚かな行為の中でも、特に愚かな事ではなかろうか」

 
 

(2)「治承の辻風」巨大な竜巻が都を襲った

 

 
「安元の大火」からわずか3年後、今度は巨大な竜巻が京の都を襲いました。
 
 
猛烈な竜巻が、北から南へ都を横断したのです。
 
 
竜巻の進路上の建物はその中にあった財産ごと、ことごとく空へ吹き飛ばされました。激しい風にあおられ、大きな板切れが枯れ葉が舞うように乱れ飛んだのです。
 
 
激しい風とともにものすごい雷鳴がとどろくので、人の声も聞こえず、まるで「地獄の業風」のようでした。
 
 
天災は避けられません。いつ起こるかもわかりません。とにかく驚くばかりの威力だったというのが、この長明の言葉から伝わります。
 
 
「つむじ風はいつも吹くものだが、これはただ事ではない。神仏のしかるべきお告げであろうかなどと不審に思ったのだった。」

 
 

(3)平清盛の「福原遷都」からの「京都遷都」

 

 
巨大な竜巻「治承の辻風」が都を襲ったわずか二週間後、平家打倒を呼びかける最初の戦い「以仁王(もちひとおう)の乱」が勃発しました。
 
 
戦場は都の南、宇治の平等院です。以仁王と源氏の長老・源頼政がこの戦いで討死しましたが、これを機に「平家打倒」の動きが各地へ広まりました。
 
 
そんな折、竜巻から1カ月後にときの権力者・平清盛が、突然都を福原(神戸市)に移すと決定したのでした。「福原遷都」です。
 
 
帝に近い者、野心のあるものはわれ先にと京の都を捨て、福原へ引っ越しました。
 
 
そうして、つい先月まで「宝石を敷き詰めたような都」と呼ばれていた京の都は、あっというまに没落していったのです。
 
 
鴨長明はこのとき「福原」に行き、その状況を見て来ています。
 
 
福原は(神戸なので)山と海に囲まれた狭い土地で、まだまだ新しい家はまばらでした。
 
 
そして、もともと福原に住んでいた者たちは、土地を取り上げられ嘆いていました。一方、京都から引っ越してきた人たちも、土木工事の苦労が絶えないと嘆いていたのです。
 
 
日が経つにつれて「福原遷都」への不満が高まっていきました。
 
 
そうして、ついに半年後、都を京都に戻す(京都遷都)と宣言されたのです。
 
 
でも、いったん寂れた町は、簡単には元には戻りません。都が復興するには長いときがかかったのでした。
 
 
この「福原遷都」と「京都遷都」は人災です。権力者の横暴が社会を大混乱に陥れたのです。

 
 

(4)「養和の飢饉」で疫病が大流行

 

 
遷都の翌年あたりから、2年の間、都(関西地方)はひどい飢饉(ききん)に見舞われました。この年、平清盛が病死しています。
 
 
その年、春夏は日照りが続いて秋には台風や洪水の被害にあって、稲や麦などの農産物がほとんど実りませんでした。
 
 
朝廷も事態を重く見て、様々な祈祷を行いましたが、まったく効果はありません。(←当然だろと思いますが、当時はこれが最も効果的と思われてた)
 
 
都の人々の食糧は、周辺地域からの輸入に頼っていました。それが、ほとんど入ってこなくなったのです。
 
 
そうなるとどんな立派な家屋敷より財宝より、価値があるのは「米」や「雑穀」になります。
 
 
公家たちは、硬貨な財宝をわずかな食糧と引き換えるのに必死になりました。でも、財宝を欲しがる人などいませんでした。
 
 
人々の嘆き悲しむ声が、あちらこちらから聞こえてきました。
 
 
次の年には、飢饉が続いたまま伝染病が大流行しました。都はさらに悲惨な状況になりました。
 
 
伝染病や飢えでバタバタと人が倒れ、道端は死体であふれました。埋葬する場所もなく街中には腐臭が充満していきました。
 
 
仁和寺の隆暁法印(りゅうぎょうほういん)という僧が、が4月と5月の2カ月、道端で死んでいる人の数を数えてみました。すると、都の中心部だけで42,300人もいたということです。
 
 
普段、このようなニュースを見聞きしても、私たちは過去の事、別の地域の事と、都合よく解釈しがちです。でも、「ありえないと」思うようなことは、いつ現実に起こるかわからないのです。
 
 
危機管理は常に考えておく必要がありますね。

 
 

(5)「元暦の地震」最も恐ろしい災害は地震

 

 
大飢饉から数年後に、ものすごい大地震が起こりました。「方丈記」に書かれたこの地震の様子は、すさまじいです。
 
 
山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地を水浸しにしました。地面が裂けて水が湧きだし、岩は割れて谷に転がりこみました。
 
 
鴨長明が体験したこの「元暦の大地震」はマグニチュード推定7.4、震源地は京都盆地の北東部でした。
 
 
これは「阪神淡路大震災」(M7.2)に匹敵する大震災です。
 
 
京都近郊のすべての神社仏閣が被害をうけ、しばらくの間、普段ならびっくりするようなほどの地震(余震)が20~30回も続いたのです。
 
 
本震から10日、20日と日が過ぎていくと、余震も2~3日に1回と落ち着いてきました。
 
 
大地震直後は、人々は「財産を持っていても仕方がない、この世は無常だ」と心のけがれが薄くなるようなことを言っていました。
 
 
でも、日が経つにつれて、地震があったことさえ忘れてしまったかのように元に戻り、また同じようなことを繰り返しているのです。
 
 
この大地震の約3カ月前に、「壇ノ浦の戦い」で平家一問が滅亡しました。
 
 
鴨長明の「方丈記」が書かれはのは、世の中の価値観が劇的に変化した、まさに激動の時代だったのです。

 
 

おわりに


 
 
「方丈記」の前半は、こんな感じで当時の災害についての記述がほとんどです。
 
 
後半は、鴨長明の「方丈庵」での「持たない暮らし」の楽しさが中心になります。
 
 
迷い多き人がこの世で幸せになれるかどうかは、「こころ」1つで決まるのだという鴨長明の価値観が全面に表れています。
 
 
それについては、また別の機会にお伝えしたいと思います。
 
 
「方丈記」は、現代語訳もネット上でもたくさん見つかりますが、イラストや写真が豊富で文字が大きく読みやすいおすすめの本がありますよ。
 
 
こちらです「方丈記」全文も収録されてます。↓

 
兼好法師の「徒然草」と読み比べるのも楽しいですよ♪
 
 
【関連図書】

こころに響く方丈記 鴨長明さんの弾き語り [ 木村耕一 ]
 
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