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こんにちは。
「吉田兼好」として広く知られる兼好法師、今の高校の古典では「徒然草の作者は?」という問題に「吉田兼好」と書くと不正解なんですよ。
正答は「兼好法師」または「卜部兼好」なのです。一昔前と変わってますね。
この作品は、約700年も前に書かれたものなのですが、今でも十分通用します。人の想いや生き方は、今も昔も変わらないということなのでしょう。
清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」とともに「日本三大随筆」の1つに数えられます。
目次
卜部兼好は元は公務員だった
吉田兼好の本当の名前は卜部兼好(うらべ かねよし)といいます。13世紀後半に生まれました。
卜部家は昔から神職の家柄で、父親が吉田神社の神職だったのです。そして、後の時代に「卜部」から「吉田」と名乗るようになったため、吉田兼好という名で広まったのでした。
若いころは公務員のような定職にしっかりついていて、従五位下左兵衛佐(じゅごいげ さひょうえのすけ)という役職にまで昇進しています。大納言・堀川家で官吏のような仕事をしていました。
でも、30歳ぐらいになるとこのような先の見える生き方はおもしろくないと感じたのか、出家してフリーになろうと考えたのでした。
出家の理由ははっきり分かっていませんが、彼はもともと文才があり和歌の才能も認められていました。ですから、結果的にフリーライターとして独り立ちできる能力が十分そなわっていたのです。
特に和歌の才能は素晴らしく、「二条派」(和歌の流派)の二条為世(にじょうためよ)という人から和歌を学び、為世門下の中でも「和歌四天王」の1人に選ばれるほどでした。
兼好の和歌は「続千載集」「続後拾遺集」「風雅集」に合わせて18首おさめられています。
出家後は徒然なるまま日々の出来事をノートにつづりながら、和歌の添削の先生もしていたようです。
本当に自由気ままな生活をし、もともと鋭い感性を持っていたので、日々感じたこと、想うことを書きつづり、シンプルライフはいいよと伝えたエッセー集が「徒然草」なのでした。
「徒然草」はシンプルライフを推奨
「徒然草」は、最近また人気が復活しつつあるようです。最近の風潮に合っているのでしょうね。
まず、この「徒然草」というタイトルの意味を見ていきましょう。
「徒然」には「やるべきことはなくて退屈なさま、手持ち無沙汰なさま」という意味があります。そして、「草(草子)」は「ノート」を意味します。「枕草子」の「草子」も同じです。
ジャンルは隠者文学で、中心になる思想は「仏教的無常観」といわれます。
でも、いろんな雰囲気の段があって、内容はかなり長いです。全部で243段から成るエッセーで、上巻と下巻に分かれています。
おそらく思いつくまま書きつづっていたのでしょう、とても長い段もあれば、数行でおしまいという段もあります。
テーマは幅広く、生き方や仏道修行のほかに、旅、自然、友人のことなど様々です。京都の仁和寺の近くに庵を構えていたので、京都や仁和寺の話題も多いです。
友人の話や自分の好みについてつらつら書いたり、ユーモアを効かせたかと思うとキリリと風刺をしながら逸話を紹介したりと、盛りだくさんでおもしろいです。
機知に富む文章なので説教臭くなく、現代人でも十分共感できる深い内容になっています。
そんな兼好法師作品の中から、代表的なものをいくつかご紹介します。
(1)徒然草第10段「家居のつきづきしく」
教科書に載ってる有名な段です。
なんといっても、この段には西行法師が登場するのです。同時代人と分かりますね。
この段でおもしろいと思ったのは、「隠者のくせに、かなり家にこだわるじゃないか」というところです。
「教養ある人が、穏やかに暮らしている家は、そこに差し込む月の光も、いっそう身にしみるように感じられるものです。」
「現代風なきらびやかさはなく、木立がどことなく古びて、特に手をかけているわけでもない庭の草も趣があって、簀の子や、すき間のある垣根の配置も趣深く、さりげなく置いてある道具も古風に感じられてよい雰囲気なのは、奥ゆかしいですね。」
などなど、かなり細かなところまで自分の「住まい」に関する好みを綴っていますよ。
その後、後徳大寺の大臣が家に鳶(トビ)除けの網を張ったのを見て、西行が心の狭い人だなーと言い、もうその家にはいかなくなったらしいよというような件(くだり)になっていきます。
いろんな人の話題に登場する西行法師については、こちらをどうぞ♪
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➾「西行法師」の生き様が超絶クールなわけ!桜と月に魅せられた放浪の歌人
(2)徒然草第92段「ある人、弓射ることを習ふに」
これも非常に有名な段で、「知的生き方文庫」に入れてもいいような真面目なことを書いています。
ある人が弓矢を習うとき、二本の矢を持って的に向かいました。
そのとき、師匠がこういったのです。
「初心者は、矢を2本持って的に向かってはいけません。まだ後1本あると残りの矢をあてにして、最初の弓をいい加減に射る気持ちになるからです。毎回、この1本の矢で射ぬこうという覚悟でのぞみなさい。」
どんなことも、これが最後のチャンスと本気で取り組めという心構えを説いています。この師匠の戒めは、あらゆることに通じますね。
原文は吉田兼好の名言として、よく取り上げられます。
↓
「二つ矢を持つことなかれ。後の矢を顧みて初の矢になおざりの心あり」
(吉田兼好)
(3)徒然草第150段「能をつかんとする人、」
第150段はこれから芸を身につけようとする人について、兼好法師からのアドバイスがつづられた段です。
意訳すると、こんな感じになります。
初心者は、「下手くそなうちは、人に見られたら恥だ。こっそり練習して上達してから、芸を披露するのがかっこいいのだ」と、勘違いしがちだ。
でも、そんな事を言っている人が、芸を身につけた例えは1つもない。
下手くそなうちから上手なベテランにまざって、バカにされたり笑い者になっても気に留めず、平常心でがんばっていれば、特別な才能や素質などなくても上達できる。
芸の道を踏み外したり、我流になることもないだろう。
そのままま練習し続ければ、要領だけよく訓練を怠る者を超えて、達人になっていくのだ。
人間性も向上して、努力が報われ、周囲からの尊敬も得られる。
「天下に並ぶ者なし」と言われる人も、最初は下手くそと笑われ、けなされてひどい屈辱を味わってきたのだ。
それでも、その人が芸の教えを正しく学び、一歩一歩歩み続けてきたからこそ、多くの人に尊敬され、万人の師匠となったのだ。
どんな世界でも同じである。
「こっそり1人で練習してかっこよく披露したい」という気持ちは、誰しも持ってしまうと思いませんか?
でも、そう思って隠れて練習しても、芸を身につけることはなかなかできないのだそうです。(効率が悪いという事でしょう)
そうはいっても、人からけなされてしまうと、「もう自分には才能がないんだ」とがっかりしてしまいますよね。
ですから、指導する側は、やはり「ほめて伸ばす指導」を心がけることが大事なのだなと思います。
芸事だけではなく、楽器もスポーツも語学もどんなものでも、ある程度力をつけるには数稽古が必要になります。
受験勉強をしたことのある人は塾や予備校で聞いたことがあると思いますが、「量質転嫁の法則」という上達するための有名な法則があります。
何かを習得するとき、「ある一定の量を積み重ねると質的な変化を引き起こす」という意味の言葉です。
つまり、上手くなりたければ質が変化するまで量をこなすことが必要で、質が変化しない段階で量(反復練習)を止めてしまうとすぐに元に戻ってしまうのです。
でも、思考停止したままやみくもに数だけこなしても意味がありません。
学んだことを何度も繰り返し思い出して、確認しながら考えながらの反復練習が必要なのです。始めはみんな下手くそですが、めげずにとにかく数をこなすのが大事なのです。
おわりに
「徒然草」は、兼好法師が思いついたことをつれづれに書き綴ったものです。
学校では「仏教的無常観」などという固い言葉も習いますが、適当に見聞きしたことをつづっている段もたくさんあります。
彼はどちらかというと人好きで、困ったら他人に頼ることもできたようですよ。(お金がないから「お米ちょうだい」という和歌を友だちに送ってます。)
「徒然草」には、天皇や公家、武士、庭師などいろいろな身分の人たちが登場します。
好みについての描写は一貫性のないところがあるのですが、そこがまた本当につれづれに思いつくまま書いているんだろうなと思えて楽しいです。
「徒然草」関連の本で、最近とても読みやすいふんわりした雰囲気の本が出ました。勉強っぽいものでなく楽しく読みたいと思う人にイチオシです。
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兼好法師の簡単な年表
兼好法師は誕生年が正確には分かっていません。
ですから、おおよそのイメージとしてとらえてくださいね。
・1283年(1歳)
京都・吉田神社の神官の息子として誕生
・1301年(19歳)
後二条天皇即位で「六位蔵人」に任じられる
・1307年(25歳)
関東大地震、凶作、疫病流行
・1313年(31歳)
このころには出家している
「徒然草」第1部完成か?
・1318年(36歳)
後醍醐天皇即位
・1326年(44歳)
最後の執権・北条守時が就任
・1332年(50歳)
後醍醐天皇隠岐に流罪
・1333年(51歳)
足利尊氏挙兵→鎌倉幕府滅亡
後醍醐天皇による「建武の新政」開始
・1336年(54歳)
南北朝分裂
「徒然草」完成か?
・1338年(56歳)
足利尊氏が「征夷大将軍」に就任
・1352年(70歳)
死没
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