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こんにちは。
今回は明治の文豪・宮沢賢治について、さらりと簡単にご紹介します。
彼の代表作「銀河鉄道の夜」などは、今もベストセラーですが、生前は公表した作品が少なく、ほとんど評価されませんでした。亡くなってから世に出て文豪と認められた人なのです。
今では、小中学校の教科書にもよく取り上げられているのに、意外ですね。
目次
宮沢賢治の生い立ち
宮沢賢治は、東北の岩手県花巻町に生まれた童話作家・詩人です。父は呉服店と質屋を営み、地元では裕福な家で生まれ育ちました。
子どもの頃から読書や鉱物採集が趣味で、中学時代には、散歩に行くときに金づちを持ち、珍しい石(鉱石)があると叩きながら歩いたそうです。
また、「不思議体験」を何度かしたことがあり、木や花の精霊を見たなどと友人に語ったことがあったとか。「コックリさん」や睡眠術に熱中したこともあるようですよ。
成長すると盛岡高等農学校(現在の岩手大学農学部)に入学し、その頃から詩を書き始めました。
岩手県の花巻で農学校の教師として働きながら農民の生活を詩にしましたが、教師と文学活動という2つの活動で多忙な日々を過ごしたため、過労で重い肺病にかかってしまいます。
1922年、賢治の自慢の妹・トシが結核で亡くなってしまいました。
愛する妹を失った失意の中で生み出したのが「永訣の朝」や「無声慟哭」という作品です。
それから、賢治は花巻農学校を辞職して、農業を行うようになりました。
でも、食べていくために必死で農業を営んでいる農民たちにとって、賢治の農業活動は「金持ちの道楽」にしか見えませんでした。
賢治は拝金主義の父親を馬鹿にしながらも、父から援助を受けていたのですから。
その後、伊藤七雄という人から招待されて、伊豆大島で農学校の設立に尽力しましたが、結核を発症してしまいます。
病状は一進一退を繰り返していましたが、最後は肺炎にかかってしてしまい、37歳の若さで亡くなりました。
宮沢賢治の性格と特徴
宮沢賢治は、優しく真面目だったけど、かなり頑固な性格をしていました。
彼は凝り性で、いろんなものを集めていましたが、そこにも頑固さが表れていると思います。
◆収集オタク(コレクター)だった!
宮沢賢治は「収集癖」があって、鉱石や、当時、最先端のクラシック音楽のレコードのコレクターだったことでも知られています。
クラシックレコードの収集はマニアの域に達し、ポリドールの社長から感謝状が届くほど売り上げに貢献しています。完全にオタクですね。素敵です^^♪
クラシックが彼の詩や童話のインスピレーションの元になっているのは、間違いありませんよ。
「セロ弾きのゴーシュ」は、オーケストラのチェロ(セロ)弾きですし、「銀河鉄道の夜」の登場人物カムパネルラの名前は、リストのピアノ曲「ラ・カンパネラ」のイメージでつけたそうです。
また、彼は浮世絵(春画)コレクターとしても知られています。
農学校に勤務していたときには、積めば30~40センチにもなる大量の春画を持っていて、同僚と批評し合って楽しむこともあったそうです.
◆法華経信仰と菜食主義
宮沢賢治は熱心な仏教信者で、「国柱会」という日蓮系の新宗教に入信していました。彼の作品に仏教思想の影響が色濃く反映されているのは、このためだと思われます。
実家は、代々浄土宗を信仰する家系だったのですが、20歳の頃、日蓮宗に傾倒しました。
その一方で、彼はキリスト教の教えにも関心があったようです。
法華経信仰に入った後、盛高研究生になった1918年頃から5年ほどの間、宮沢賢治は菜食生活をしていました。
でも、そんなに厳格な採食主義ではなく、たまに魚なども食べていたようです。
そして、農学校の教師になった頃には、他の人と同じようにいろんな物を食べるようになっています。(飽きたのかな?)
◆エスペラント語
宮沢賢治は世界の共通言語として人工的に作られた「エスペラント語」に強い関心を持っていました。
自分の詩のいくつかを、エスペラント語に翻訳しています。
宮沢賢治の詩などで「イーハトーブ」という言葉を目にしたことがありませんか?
これは、実際の地名をエスペラント語風に読みかえたものなんですよ。それを自分の作品にも登場させています。
ちなみに、「イーハトーブ」は「岩手」のことです。
他に、「盛岡」は「モリーオ」、「塩釜」は「シオーモ」、「東京」は「トキーオ」になります。
実際の地名を、エスペラント語に翻訳して作品に登場させているのです。
他には、ドイツ語も熱心に学習していたようです。
宮沢賢治の恋愛
宮沢賢治は、彼は生涯結婚しませんでした。
彼は恋人よりも妹の影のほうが濃い人(作品に残しているから)なので、恋愛経験がないように思われがちですが、まったくなかったわけではありません。
教員をしていた頃は、大畠ヤスという女性と恋をしています。
付き合うようになったきっかけは、賢治が女学校でレコードコンサートを開いたとき出会ったのでした。レコードという趣味が縁だったんですね4。
でも、結局うまくいかずに別れています。
宮沢賢治は、女性の好みがはっきりしていたようで、あまり好ましくない人から世話を焼かれたときは、割と分かりやすく避けています。(やり方が下手だったのか、その人には嫌われたようですけど)
晩年、伊豆に渡ったと、賢治を招待してくれた伊藤七雄という人の妹を気に入りました。
でも、若くして賢治自身が病気になり亡くなったので、結婚することはありませんでした。
いくつか女性エピソードはありますが、真面目に対応していたようです。
宮沢賢治と中原中也
中原中也は、1907年生まれの「詩人」です。(30歳で死去)
「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」
この詩でよく知られています。
中原中也は破天荒な生き方をした詩人で知られ、太宰治と口論したり小林秀雄に奥さんを取られて、それでも最後まで2人と付き合っていた(小林秀雄は中也の死を看取った)りと、ハチャメチャなエピソードが多い興味深い人物です。(詩人ですから)
酒乱でケンカっ早く、ランボーに心酔してフランス語をよく学び、ランボーの詩の訳本を出した、自分の興味あることにはとても勉強熱心な人でもありました。
中原中也は、宮沢賢治の詩の不思議な宇宙観と口語による響きに、すごく魅かれていた人だったのです。
宮沢賢治の生前に発売された書籍は、詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」だけでした。
「春と修羅」は、自費出版でほとんど売れなかったのですが、中原中也はそれを書店で見つけては自分で買って、よい作品だからと友人たちに配っていたそうです。
2人はほぼ同時代人で、どちらも上京し草野心平など共通の知人もいましたが、微妙に時期がずれていて直接的な面識はなかったようです。
宮沢賢治の代表作
『雨ニモマケズ』
『注文の多い料理店』
『セロ弾きのゴーシュ』
『銀河鉄道の夜』
『やまなし』
『よだかの星』
『どんぐりと山猫』
『オツベルと象』
それぞれの作品の記事は、こちらにまとめてます。合わせてどうぞ♪
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年表
● 1896年(0歳)
岩手県花巻町で生まれる。
●1909年(13歳)
旧制盛岡中学校に入学する。
短歌を詠むなどの文学活動を始める。
●1915年(19歳)
盛岡高等農林学校に入学する。
17年に雑誌『アザレア』を作る。
●1918年(22歳)
盛岡高等農林学校を卒業し、現在の岩手大学の研究生となる。
●1921年(25歳)
1926年まで稗貫農学校(後の花巻農学校)の教諭になる。
●1922年(26歳)
仲の良かった妹「トシ」が病死する。
●1924年(28歳)
詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を出版する。
●1926年(30歳)
教師を退職する。農業指導と文学活動に従事する。
私塾「羅須地人協会」を設立。
●1928年(32歳)
過労で倒れ、両側肺湿潤と診断される。
実家に戻って療養する。
●1931年(35歳)
肺結核が悪化し入院する。
詩・「雨ニモマケズ」を記す。
●1933年(37歳)
急性肺炎により死去。
おわりに
作品タイトルを見ると、動物や星、銀河など自然がテーマのものが多いですね。
宮沢賢治は童話作家といわれますが、大人でも難解な物語が多いと思います。
少なくとも、私はあまりよくわかりません。(一部の作品ですが)深読みしたくなるたちなので、いくつかの解釈ができる話にもやっとするのです。
娘は小学生のときよく読んでいましたが、分からないと感じたことはなかったと言っています。子供は素直にとらえるのでしょうね。
でも、どの解釈が正しいのかよく分からないところに、なぜか魅かれます。そして、独特の感性が表れている「オノマトペ」がおもしろくて素敵なのです。(´・ω・)
一番の代表作は、やはりこちらですね♪ 未完の大作です。
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