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こんにちは、このかです。
 
松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅で、江戸から日光を経て那須野に入ります。
 
那須野は有名な「歌枕」の地で、その近くの黒羽に知人がいたのでした。
芭蕉と曾良は、ここで4月3日から16日まで、13日間滞在(那須には2日間)してます。結構、のんびりしていたんですね。その間に、いろいろ名所観光していたようですよ。
 
この那須野の近くには謡曲で有名な「殺生石」「遊行柳」があります。
 
今回は、その「殺生石」の伝説についてお伝えします。

 
 

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「殺生石」は九尾の狐が変化して果てたもの

 

 
この地に伝わる「殺生石伝説」は、平安時代初めの鳥羽上皇の逸話です。
 
平安時代に、古代からインドや中国を荒らし回った妖狐「白面金毛九尾の狐」が、とうとう日本へやって来ました。そして、妖狐は、「玉藻の前」という絶世の美女に化身して、帝(鳥羽上皇)の寵愛を受けるようになったのです。
 
帝の命を奪い日本を意のままにしようとした「玉藻の前」は、陰陽師の阿部泰成によってその正体を見破られ、本来の姿(九尾の狐)になって、「那須野が原」へ逃げ込んだのでした。
 
朝廷は、すぐさま上野介広常と三浦介義純に命じ、8万もの軍隊を派遣して「九尾の狐」を退治させました。
 
妖狐は射殺され、巨大な石となります。
 
そして、その怨念は毒気となって、それ以来、近づく人や鳥獣を殺し続けたのでした。
 
 
時はくだり、室町時代にこれを伝え聞いた名僧・源翁和尚が、この地を訪ねます。そして、術をかけた杖をさして一喝すると、巨石はパッカーンと3つに割れました。
 
3つに分かれた石の1つは会津へ、1つは備後へと飛んで行き、残った1つがこの地に残り「殺生石」として、今も語りつがれているのでした。
 
3つに割れて効力は薄まったかもしれませんが、「殺生石」の霊力はまだ残っています。
 
那須温泉神社の境内には、今も、妖狐の御魂を鎮めるため「九尾稲荷神社」が祀られているのだとか。
 
 

芭蕉と曾良の「殺生石」観光と石の正体

 

 
松尾芭蕉と河合曾良は、大関藩の館代(藩の事実上のトップ)に一族を上げての大歓迎で迎えられます。館代の弟が門人の桃翠(翠桃)だったというのもありますが、当時、すでに芭蕉が俳諧師として大人気だったというのが、よく分かります。
 
そこで、芭蕉たちは、彼らから平家物語で有名な「那須与一」と縁のある神社や、謡曲の題になった「殺生石」の話を、くわしく聞いたのです。芭蕉は源氏が大好きなので、「那須与一」ゆかりの神社には、是非とも行きたかったでしょう。
 
帝の寵愛を受けた美女・玉藻の前に化けた九尾の狐が、退治されて変化したといわれる石にも興味を持った彼らは、早速見に行くことにしました。
 
 
「殺生石」は、那須湯本温泉の近くにあります。
 
 
 
実は、この「殺生石」付近には、今でも温泉地にありがちな有毒ガス・硫化水素ガスが出ているのです。石から発生しているのではなく地下からですが、昔は、今よりずっと強烈なガスが出ていたようですよ。
 
そして、付近の地温は80〜90度と高温で、発生する硫化水素ガスは空気より比重が重いので、「殺生石」のような谷間の窪地にガスがたまりやすかったのでした。
 
昔の人は、それが有毒ガスによるものとは分からなかったので、「妖狐の怨念」で石が霊力を持ったと考えたのでしょう。

 

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殺生石は温泉の出る山陰にあり。
 
石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
 
(殺生石は温泉神社のすぐ後ろにあった。
石の毒気が未だに残っていて、蜂や蝶などが、土が見えないほど沢山折り重なって死んでいた。)
 
出典:『奥の細道』(松尾芭蕉)

『奥の細道』のこの記述から、芭蕉たちがこの地に行ったときにも、有毒ガスが出ていたというのが、よく分かります。
 

『曾良旅日記』には、芭蕉が詠んだこんな句が載っています。
 
石の香や 夏草赤く 露暑し 
 
(殺生石は硫黄の臭いが鼻をつき、緑濃いはずの周りの夏草は赤く枯れ、冷たくあるべき露もむんむんとして暑苦しい。まことにすさまじい感じがする。)
 
玉藻の前(九尾の狐)の妖気が、まだ残っているのだろうかという感じですね。。。

 

おわりに


 
芭蕉は江戸に帰ってから『奥の細道』を書きましたが、『曾良旅日記』は、曾良が旅の最中に書きとめたものです。
 
この2人の記述には食い違う点がたくさんあって、どちらかというと『奥の細道』のほうが創作だと考えられています。
 
つまり、曾良のほうが記録として正しいという事です。
 
例えば、黒羽に入った日、芭蕉は雨が降っていると梅雨らしい雰囲気を演出していますが、『曾良旅日記』によると、この日は快晴でした。
 
実話として正しいのは曾良の日記で、芭蕉の『奥の細道』は記録をもとにした作品(フィクション)だということです。
 
門人として登場する「桃翠」は、正しくは「翠桃」という俳号でした。(これもフィクション)
 
こんな風に、ちょこちょこと創作を加えて、芭蕉は『奥の細道』を作品としてより良くしようと考えていたのでした。
 
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