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 元旦の朝にいただく行事食といえばおせち料理とお屠蘇、そして、お雑煮を忘れてはいけませんね。
 
 
「お雑煮」が各地方によって異なるのは、メディアでもよく報道されるので広く知られていますね。
 
 
珍しいご当地「お雑煮」の紹介はとてもおもしろいです。

 
 

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江戸と上方のお雑煮の違いは?

 
 
◎まずはざっくりと「関東」と「関西」のお雑煮の違いを表しておきます。
 
 

★「関東」のお雑煮のとくちょう

 

 
●角餅を焼いてから入れる
●醤油のすまし汁
●具材は鶏肉、小松菜、かまぼこ、大根、ニンジン、三つ葉など

 

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★「関西」のお雑煮のとくちょう

 

 
●丸餅を焼かずにそのまま入れて煮る
●白味噌仕立て
●具材は 小芋、大根、ニンジン、クワイなど根菜中心

 
 

お雑煮はいつからあった?

 

 
お雑煮のメインともいえる「おもち」は、かなり古くから神様にお供えする大切な「ハレの日」の食べ物だったんですよ。
 
 
奈良時代にはすてに読経の供養としてお供えされていて、平安時代には宮廷のさまざまな儀式に用いられました。
 
 
お雑煮に入れる「おもち」自体が、とても縁起のよいおめでたいものだったのです。
 
 
「鏡餅(かがみもち)」に象徴されるように、「神様への供物」にふさわしい食べ物とされていたのです。
 
 
今と同じようにお雑煮が「お正月」の行事食になったのは「室町時代」からでした。
 
 
室町後期に書かれた「山内料理書」によると、「雑煮とは餅、いりこ、丸鮑(あわび)をたれ味噌で煮た豪華なもの」とあります。
 
 
この文献から、この時代に「雑煮」という名がすでに生まれていたことがわかります。
 
 
でも、室町時代はまだ上流階級の間でだけお祝いに食べられるものでした。

 
 

お雑煮は江戸時代に庶民のもとへ!

 

 
江戸中期の元禄期になると、お雑煮は庶民の間に広がって「正月三が日」のお祝いの料理になりました。
 
 
これまで「お正月の風習」をいろいろ見てきましたが、、平安時代のころは貴族の風習だったのが、江戸時代になって一般庶民に広がったるという流れのものがとても多いです。 

 
 
江戸後期には「関東」と「関西」で今と同じようにお雑煮に違いが見られるようになりました。
 
 
「江戸」と「上方」のお雑煮は違うということを、喜多川守定という人が「守定漫稿」という書に記しています。

 
 
その言葉を現代風に要約すると・・・
 

「大阪の雑煮は味噌仕立て、丸餅を焼かず、小芋、焼豆腐、大根、乾あわびを具材とする」
 
「江戸の雑煮は切餅を焼き、鶏肉、里芋に小松菜を加え、かつお節を用いた醤油の煮だしである」

 
 
今とほとんど同じ「違い」ですね。
 
 

江戸のお雑煮のお餅が「角餅」になったのはなぜ?

 

 
もともとお祝い事に使われるおもちは「丸餅」でした。
 
 
それは、古代の人が「丸い形」のお餅に神が降りてくると考えていたからです。
 
「鏡餅」がとてもおめでたいのは、その丸餅を二つ重ねて、さらに縁起物を飾りでわんさか付け足したものだからなのです。
 
 
関西では今も伝統的な「丸餅」を使います。
 
 
でも、江戸ではそのおもちが「角餅」に変わったのです。
 
 
なぜでしょうね~?
いくつかの説(理由)が伝わっていますよ。
 
 
1つは「関ケ原の戦い」がそのきっかけとなったという説です。
 
 
その根拠は、「東の角餅、西の丸餅」といわれるように、その境界線が関ケ原あたりにあるからといわれます。
 
 
もうひとつの有力説は、江戸の人口がすごく多くなったからという説です。
 
 
1つずつおもちを丸めるより、大きな「のし餅」を作ってそれを四角に切る角餅のほうが、作るのに時間も手間もかかりません。
 
 
つまり、効率的だったということです。
 
 
元禄期の江戸の人口は約35万人で享保期は50万人といわれます。
 
 
でも、この享保期の50万人というのは、8代将軍・吉宗が調べさせた町人のみの数なのです。
 
 
これに武家や寺社の人口を合わせると100万人を軽く超えていたといわれています。
 
 
そして、人口密度も今の東京よりずっと高かったのでした!(1平方kmあたり約6万人)
 
 
当時の都市人口は、ロンドンで約86万人、パリで約54万人でした。
 
 
江戸は世界有数の「巨大都市」だったのです。
 
 
そういう社会の事情を考えると、「丸めるのめんどくさいから、もう角餅でもいいか!」と思ったという説は、なんだな納得できるのでした。

 
 

江戸のお雑煮が醤油のすまし汁仕立てになったわけ

 

 
「醤油」が料理に用いられるようになったのは、江戸時代に入ってからでした。
 
 
もともと江戸のお雑煮も、ベースの味つけは関西から伝わった味噌仕立てだったのです。
 
 
でも、江戸での醤油の流行で、江戸っ子はこの「おしょうゆ味」がとても気に入り、いろんな調理の味付けに使うようになっていったのです。
 
 
江戸時代の庶民の家庭料理は、主な蛋白源が「魚」でした。この魚の臭みを消すのに、醤油のうまみ成分(グルタミン酸)がたいへん役に立ったのです。
 
 
そうして、ブームになった「醤油」を、お雑煮にも使うようになっていったのです。
 
 
また、江戸は武士の治める土地でした。
 
 
それらの武士階級の人たちは、「味噌をつける」に通じる「味噌」をお正月から食べたくなかったから醤油味に変えたという説もあります。
 
 
ちなみに「味噌をつける」というのは「面目を失う」という意味のことわざです。

 
 

おもちを入れないお雑煮も?

 

 
おもちは古代から「ハレの日」の食べ物だったとお伝えしましたね。
 
 
でも、お雑煮におもちを入れない地方もあるんですよ。北関東から東北地域に広くみられるそうです。
 
 
また、お雑煮におもちを入れないどころか「正月三が日」は、おもちをお供えしたり食べたりすることを「禁忌」とする風習のある地方もあるのです。
 
 
それは、栃木県などの北関東地域に見られます。
 
 
これらの地方は、もともともち米が取れない土地だったので、五穀豊穣を願うお正月には、自分たちの土地で取れた芋類中心のお雑煮を食べるという、昔ながらの風習がまだ残っているからなのだそうです。
 
 
お雑煮はお正月の行事食の中でも、とくに地域色が色濃く出るお料理です。
 
 
調べれば調べるほど、興味深いのでした♪
 
 
お正月の行事食について、他にもいろいろお伝えしていますよ。合わせてどうぞ♪

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<参考:大江戸食べもの歳時記 永山久雄著 新潮文庫>