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こんにちは、このかです。
 
 
最近、文豪と親交のあった詩人がおもしろくて、いろいろ読み返しています。石川啄木や北原白秋は、かなり好きな人が多いですが、今、興味があるのは室生犀星です。
 
 
猫好き(小動物好き)でお節介なほど気の良い人で、萩原朔太郎の親友だった室生犀星。文豪(詩人)にしては珍しく、いい人エピソードの多い人ですが、まず、思い浮かぶのは、この代表作ですね。
 
 
詩というものは、後世の解釈が分かれるものが多いです。この有名な詩も、例にもれず、なんですよ。
 
 
一般的(教科書的)には、室生犀星はこの詩を「ふるさとの金沢で作った」といわれます。つまり、上京して「ふるさと」を懐かしんだ詩ではなく、「ふるさと」にいながら、ふるさとを想う詩を作ったのです。

 
 

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「ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・」

 

【引用元】http://www.kanazawa-museum.jp

ふるさとは遠きにありて思ふもの
 
そして悲しくうたふもの
 
よしや
 
うらぶれて異土の乞食となるとても
 
帰るところにあるまじや
 
ひとり都のゆふぐれに
 
ふるさとおもひ涙ぐむ
 
そのこころもて
 
遠きみやこにかへらばや
 
遠きみやこにかへらばや
 
出典:『小景異情ーその二』

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室生犀星といえば、この詩というほどの代表作です。
 
 
抒情的な詩ですね。ふるさとから遠く離れて暮らしている多くの人が、じーーんと共感できる言葉だと思います。
 
 
定説では、室生犀星がこの詩を作ったのは、彼が「ふるさと」の金沢に帰ったときだったとされています。「みやこ」は東京のことを指します。
 
 
どうして、懐かしいはずの故郷でこういう言葉を紡いだのでしょう。彼の生い立ちをみていくと、このような寂しい詩をたくさん残したわけが、なんとなくわかります。

 
 

望まれない子だった室生犀星

 

 
室生犀星は、1889年(明治22年)に石川県の金沢に生まれました。
 
 
近くに犀川という川が流れているのどかなところです。室生犀星の「犀」は、この犀川からとったものです。
 
 
父は加賀藩の足軽頭を務めた下級武士でした。そして、室生犀星は、その父が女中に産ませた子だったのです。
 
 
愛妾の子だったため、彼は生後すぐに親から離されて、近くのお寺に預けられました。預けられたというと聞こえがよいですが、要するに、お寺に捨てられたのです。望まれない子でした。
 
 
犀星は照道と名付けられてそこで育てられ、7歳のときに生家に引き取られました。でも、実家に戻れてよかったねという境遇ではまったくなく、肩身の狭い思いをしたり、私生児とののしられたりしたそうです。
 
 
家は貧しかったので、犀星は13歳で学校をやめ、金沢地方裁判所の給仕として働き始めました。そうして働きながら、俳句や詩、小説などを新聞や雑誌に投書するようになったのです。
 
 
彼が詩人になろうと決意して上京したのは、1910年です。それから『スバル』などの文芸誌に載せられるようになって、北原白秋萩原朔太郎と親しくなりました。
 
 
その後は、73歳で亡くなるまで、詩人・小説家として数々の作品を残し、猫と家族と共に穏やかに過ごしました。
 
 
室生犀星の詩が、どこか寂しく物悲しい感じのするものが多いのは、この生まれと幼年期の環境の影響を強く受けているからでしょう。
 
 
なぜなら、室生犀星にとって「ふるさと」は、けっして懐かしい優しい場所、自分がいつでも受け入れてもらえる安心できる場所ではなかったのです。
 
 
そして、この詩「ふるさとは遠きにありて思ふもの」は、その「ふるさと」で疎外感を感じて、もう2度と帰るまいと決意して作った詩なのです。
 
 
よしやうらぶれて異土の傍居となるとても
帰るところにあるまじや

 
 
「帰るところにあるまじや」
帰るところではないのだ・・・
 
 
「ふるさとには、もう帰るまい」という強い決意の込められた言葉ですが、懐かしさのあまりそうつぶやいているのだと、間違えて解釈する人が多いようです。ふるさとに帰った室生犀星は、そこに寂しい虚しさを感じて去ったのです。
 
 
彼は、家庭に居場所がなかったので、早く独り立ちしようと東京に出ました。でも都会は、貧乏な田舎者には冷たい場所でした。
 
 
それで、彼は自分の心の中、思い出の中の「ふるさと」を懐かしんで帰ったのですが、現実の「ふるさと」は自分が思っていたような所ではなかったのです。
 
 
よしやうらぶれて異土の傍居となるとても
帰るところにあるまじや

 
 
たとえ落ちぶれて異郷で物乞いになったとしても
帰るところではないのだ(帰らないぞ)
 
 
「ふるさと」を懐かしむときに、この詩を呟くのは間違いというお話でした。

 
 

別解釈は親友の萩原朔太郎から?

 

 
この詩には、もう1つの解釈があります。
それは、室生犀星がこれを作ったとき、彼は「ふるさと金沢にいた」のではなく「東京にいた」という説です。
 
 
「みやこ」がどこを指すのもポイントなのですが、この異説の大元はイケメン詩人の萩原朔太郎氏なのでした。
 
 
どういうわけか、室生犀星の生涯の親友・萩原朔太郎が、この詩は犀星が東京でふるさとを想って作ったものと解釈してしまったようなのです。
 
 
でも、現在のところ、山本健吉が『こころのうた』で指摘しているように、朔太郎の解釈は間違いだというのが定説になっています。
 
 
それでも、やはり「東京で作った」と主張する人は、今もいます。
 
 
私はというと、やはり定説通り、室生犀星が「ふるさとの金沢に帰って虚しさを感じ、もう二度と帰らないという決意をもって詠んだ詩」だと思います。
 
 
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて
異土の傍居となるとても
帰るところにあるまじや

 
 
だからこそ、この犀星の決意の言葉に、心が揺さぶられると思うのでした・・・。
 
 
初期の抒情詩・『抒情小曲集』の中の「小景異情」が「ふるさとは~」の詩です。

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