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こんにちは、このかです。
一番単位の大きいお札に描かれている福沢諭吉。
一万円札は、福沢諭吉の前は「聖徳太子」でした。
それだけ、特別すごい偉人とみなされているんですよ。
でも、福沢諭吉といえば、『学問のすすめ』を書いた人、慶應義塾大学の創始者、ぐらいしか思い当たらないのではないでしょうか?
その『学問のすすめ』、じっくり読むと、すごく深いビジネス書だったりします。おススメですよ。
【関連】福沢諭吉はどんな人?名言と「学問のすすめ」で伝えたかったこと
福沢諭吉は、江戸末期から明治維新の動乱期に活躍した知識人です。
思想家であり教育者であり翻訳家であり作家であり学者であり、起業家だった人です。
今回は、そんな福沢諭吉について、概略をお伝えします。
簡単年表は、この記事の一番下にありますよ♪
目次
1.長崎と大阪で蘭学を学ぶ
福沢諭吉は、豊前中津藩(大分県)の下級武士の子として、大阪にある中津藩蔵屋敷で生まれました<
14歳で私塾に通い始め、19歳で長崎に出て「蘭学」と「砲術」を学びます。
その後、大阪の蘭学者で医師の「緒方洪庵」の「適塾」で学ぶようになります。
苦学生でお金がなく、一時は塾で寝泊まりして勉強していたこともあるそうです。
そして、1858年、23歳のときに、江戸の藩邸で「蘭学塾」を開きます。
25歳のとき、彼は自分のオランダ語が通じるかどうか、ためしに横浜に出かけます。その頃の横浜は、幕府が開港していたため、外国人がたくさんいたのです。
そこで、外国人に話しかけると、諭吉の「オランダ語」は、全く通じませんでした。
その理由は、外国人の話す言葉がことごとく「英語」だったからでした。
これからの時代は「英語」なのだと気づいた諭吉は、日本語に訳した英語の辞書がなかったので、英語をオランダ語に訳した辞書を使って英語を独学しました。
この時代に、いち早く「英語教育の必要性」に気付いたのは、福沢諭吉の1つの大きな功績でしょう。
2.「慶応義塾」の設立
1868年、33歳のとき、諭吉は築地の蘭学塾を芝(港区)に移して、当時の年号にちなみ「慶應義塾」と名付けました。
日本初の、塾生から毎月「授業料」を取る学校の運営です。
戊辰戦争で上野が戦場になったときも、大砲の音を聞きながら、講義をし続けたそうです
現在でも、日本有数の大学ですね。
↓ ↓ ↓
『学問のすすめ』
著書『学問のすすめ』は、1872年から刊行が始まりました。
生まれながらに上下の差はないのに、貧富の差や身分の差ができるのは、「学問」があるなしが原因で、その「学問」とは実益を伴ってこそだと説明しています。
この本は、庶民にも買いやすいように、工夫して売られました。
漢字に「読み仮名」を振って、読みやすくしたり、全部を17冊の小冊子に分けて、1冊の値段を安価にしたのです。
そして、『学問のすすめ』は、350万部の大ベストセラー本となりました。
当時の日本の人口は3500万人だったので、これはすごい数ですね。
『学問のすすめ』についての記事は、こちらです。↓
【関連】福沢諭吉はどんな人?名言と「学問のすすめ」で伝えたかったこと
3.「咸臨丸」でアメリカに!
1860年、諭吉が25歳のとき、幕府の遣米使節に志願して、「咸臨丸(かんりんまる)」に乗り渡米します。このとき、勝海舟も一緒でした。
そして、アメリカで、大きなカルチャーショックを受けるのです。
特に、アメリカが、身分の上下にかかわらず、能力次第で活躍できる社会であることに感動します。諭吉の自伝『福翁自伝』に、そのときのエピソードがいろいろ紹介されています。
その後の1866年、31歳のときに再び渡米したとき、海外で見てきたことを『西洋事情』という本にまとめました。これは、西洋の文化を紹介した本です。
当時の日本は、開国直後だったため、庶民は海外事情を全く知りませんでした。 海外のことを知りたいと思っても、世の中にはデマばかりが飛び交っていて、正確な情報が、手に入らなかったのです。
ですから、諭吉自身の経験に基づいたこの本は、たくさん売れました。
福沢諭吉の人生の前半は、こうした西洋のことを学び、それを日本の国民に教えることに費やされました。
でも、私が、凄い人だなと思うのは、彼がこれだけ西洋通になったにも関わらず、日本の伝統的な考え方や風習の良さを、しっかり伝えているところです。ただの西洋かぶれにならかったというのは、この時代に渡米した人の中で、珍しいことだと思います。
4.福沢諭吉が取り入れた「日本初」!
欧米の文化を新たに取り入れるということは、これまでなかったことを広めることです。つまり、「初めて何かを伝えた」というエピソードが多くなるんですね。
福沢諭吉は、それまで一般庶民に馴染みのなかった「肉食」や西洋の「衣食住」を定着させました。
彼が始めて日本に広めたものや、翻訳に際して作った言葉などを紹介します
(一部、異説もあります。)
5.和製漢語をたくさん作った
福沢諭吉は、「自由」という言葉を初めて使った人です。
英語の「liverty」(「free」ではない)を翻訳したときに使いました。
彼は、英語の翻訳時に新語を作ったり、それまであった言葉をうまく当てはめたりしています。
例)
「speech」➾「演説」
「society」➾「社会」
「economy」➾「経済」
ちなみに、夏目漱石や森鴎外も、多くの新造語をつくった人といわれます。
保険会社・日本銀行
「保険」は、イタリアの都市国家「ベネツィア共和国」が始めたものです。
地中海貿易は危険が伴うため、船とその積み荷に「保険」をかけるという発想が生まれたのです。(参考:『海の都の物語』塩野七海著)
これは、当時の日本にはない制度でした。
それまでの日本は、災難にあったときは、親族間でなんとかするという、封建的な考え方が根強かったのです。
また、彼は「中央銀行」の必要性を説きました。それにより、「日本銀行の設立」に大きく貢献することになります。
「複式簿記」を日本に伝えたのも福沢諭吉です。彼は、「実学」の大切さを著書の中でも強く訴えています。「貸方」「借方」などの簿記用語は、諭吉の翻訳で作られたものも多いです。
新聞に「天気予報」を載せた
福沢諭吉は、『時事新報』という新聞に、初めて当日の「天気予報」を掲載しました。
そのときに「晴れ」「雨」などの天気を簡単な絵で表し、それが、現在の「お天気マーク」の元となりました
どうでもいいおもしろエピソード
居合の達人!
これは、かっこいいですね。
彼は、「立身新流居合」の免許皆伝を得ています。本物の居合の達人でした。
ストイックな練習を続けていたそうです
カレーライスを広めた!
西洋風の社会の仕組みを取り入れただけではなく、彼は西洋の「衣食住」も一般的に広めました。
カレーを広め、「カレーライス」という和製英語を使ったのは、諭吉だという説が有力です。
大酒飲み!
実は、子供の頃からお酒が好きで、よく飲んでいたというのは有名な話です。
禁酒していた時期もあるのですが、そのときも「ビールは酒ではない」と言って毎日ビールは飲んでいたそうです。
禁酒の意味が分かっていない・・・?(-.-)
結構いい加減なところもあるとわかります。(笑)
福沢諭吉 年表
ここに、簡単な年表をあげておきます。
大阪市生まれで江戸(東京)に上京した人です。
●1834年
大阪堂島で生まれる。
豊前中津藩(大分市)の下級藩士・福沢百助の次男として生まれる
●1836年(2歳)
父が死去し大阪から大分県の国元(中津)に帰る。
●1840年(6歳)
天然痘を患う
●1848年(14歳)
白石照山が主催する「白石塾」で漢学を学ぶ。
●1854年(20歳)
長崎へ遊学し、「蘭学」を学ぶ。
●1855年(21歳)
大阪の蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶ。
●1857年(22歳)
「適塾」の塾頭を拝命する。
●1858年(23歳)
江戸に私塾を設立する。
●1860年(25歳)
「咸臨丸」でアメリカ、ヨーロッパへ渡る。
●1861年(26歳)
『西洋事情』を発刊する。
●1864年(29歳)
江戸幕府の「翻訳御用」になる。
●1868年(33歳)
私塾を「慶応義塾」に改称する。
●1872年(37歳)
『学問のすゝめ』を発行する。
340万部以上の売れ行きのベストセラーに!
●1901年(66歳)
脳出血により死亡する。
●1984年
1万円札の肖像になる。
まとめ
福沢諭吉は、西洋文化を日本に取り入れるのに尽力した人です。
つまり、日本の近代化に努めた人なのでした。
そして、実益につながる「学問」の必要性を説いた人でもあります。
彼のすごいところは、その先見の明だと思います。
新しい物を取り入れようとすると、必ず保守派の大きな批判の対象となります。
それでも、それが日本のためだという強い信念を持ち、それを貫く強さがあったところが素晴らしいと思うのでした。