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こんにちは~、このかです♪
 
以前、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅は、隠密活動だったのではという都市伝説について書きました。
こちらです。↓

 
松尾芭蕉の都市伝説・伊賀忍者で公儀隠密だったというのは本当?
 
 
この説については、私は否定的で、実はえらい先生(学者)たちも、ほとんどが「そんなアホな~。」という感じなのです。
 
「じゃあ、なんで書いたの?」といわれると、あまりにも有名な都市伝説なので「実際のところどうなの?」と思う人もいると思い、また面白い俗説だから書きたかったのでした。
 
 
でも、今回のは、えらい人も認める大いにあり得る説なのです!
 
それが、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅が、「西行没後500年記念」の巡礼の旅だったというものです。

 

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『奥の細道』とはどんな作品なの?

 

 
『奥の細道』を、ちょっとおさらいしておきましょう。
この作品、ジャンルは「紀行文」になります。
 
「え? 俳句集じゃないの?」と思ったあなた、冒頭は「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり」でしたね。学校で覚えさせられたと思います。
 
つまり、これ、散文的な紀行記録の間に、俳句がぽんぽん挟まっている構成なんです。芭蕉が作った俳句は、50数句載っています。(他に弟子のものも少し入っています)
 
そして、おそらく、旅の最中に作ったのではなく、旅の途中メモしておいたものを、旅行が終わった後に、1つの作品として創作し直して完成させたものです。
 
 
当時、芭蕉は40代後半で、気管支炎や消化器官の持病があり、健康に不安がありました。人生50年の時代なので、かなりの高齢です。江戸時代なら、私も高齢者だよΣ( ̄ロ ̄lll)
 
東北への旅は、健康な人でも命がけの時代だったので、物見遊山の旅でなかったのは、確かですよ。
 
江戸の自宅の「芭蕉庵」を売り払って旅費を作っていることからも、一大決心だったとわかります。
 
もう帰ってこないかもという覚悟が、見えますね。
 
でも、1人で行くのはあまりにも危険すぎるので、門人の河合曾良(そら)が同行しました。
 
「なぜ曾良だったのか?」というところで「河合曾良・公儀隠密説」が出てくるのですが、「知の巨人?」の渡部昇一さんは、「曾良が丈夫だったからじゃない?」と言っていましたよ。「なんだそれー?」と思うのですが、実際そんなもんだったりして・・・。暇だったからとか、気が合ったからとか・・・。
 
そこらへんは、芭蕉に聞かなければわかりません。
 
とにかく、その門人の河合曾良を連れて、芭蕉は3月に江戸を出発し、8月まで約半年間の長い旅路についたのでした。
 

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『奥の細道』は、西行没後500年記念巡礼の旅

 

 
江戸元禄期に活躍した松尾芭蕉は、西行法師に憧れていました。ですから、この旅をして、自分がちょうど500年前に亡くなった西行の後継者と示したかったと推察されています。
 
芭蕉は、「人生は旅そのもの」と考えていたので、西行のほかに能因や中国の李白や杜甫など、旅の途中に客死した先人を尊敬しています。
 
能因(のういん)は、西行よりも前の人で、「元祖・旅の歌人」です。
「能因の歌枕」という有名な歌枕集を残していますよ。
 
でも、芭蕉は、西行リスペクトなんですねー♪
 
もと武士だったとか、自分とかぶるところがあったからかな。
いや、やっぱり、かっこいいからかな(生き様が)。
 
西行は、私も大・大・大好きな歌人なのでした!!!
 
とにかくかっこいい人なのです。
和歌も大好きです。
 
「どうかっこいいの?」と思われたあなたは、こちらをご一緒にどうぞ♪

  ↓
「西行法師」の生き様が超絶クール!桜と月に魅せられた放浪の歌人
 
 
「桜」と「月」の大歌人・西行法師がよくわかる旅の逸話を2紹介
 

松尾芭蕉が西行を尊敬したと思われるわけ

 

 
もともと『奥の細道』の旅の目的は、古来からある「歌枕の地」を訪ねることと、自分の俳句を多くの地に広めることでした。
 
そして、もう1つが、この西行没後500年の記念すべき年に自分の足で西行の跡を歩いたということです。そのため、曾良は西行の歌枕に関することを、事前に調べていました。
 
また、芭蕉は西行に憧れていて、この紀行文にも西行のことが4カ所も書かれています。

(1)序の部分。「古人も多く李白、杜甫、能因、西行、宗祇など旅に死せるあり」
(2)朽もせぬ其名ばかりをとどめをきてかれのの薄かたみにぞみる(新古今集 山家集)
(3)汐越の松 終夜嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松 (実は蓮如上人の歌)
(4)汐そむるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいうにやあらん(山家集)

 
4カ所と書きましたが、(3)は西行の和歌ではありません。
でも、芭蕉は、西行の作品と書いているので、勘違いしていたと思われます。
 
500年前に西行が東北に行ったのは、奥州藤原氏の藤原秀衡と親戚で仲良しだったからです。西行は2度奥州を訪ねていて、2度目は、ちょうど、秀衡が源義経をかくまっていた時期でした。鎌倉幕府誕生前夜という時代だったのですよ。
 
そのときは、西行も秀衡も、高齢でした。
そして、西行が去った約半月後に秀衡は病死し、秀衡の息子たちは義経を討ちますが、結局、頼朝に滅ぼされました。
 
夏草や 兵どもが 夢の跡
 
芭蕉がその地を訪れたとき、西行の生きた500年前のその時代の戦いを、いろいろ思い浮かべたのは間違いないでしょう。
 
そんな風にあり余る想いを17文字に詰め込めるというのが、俳句の素晴らしさの1つですよね。
 
これは、大好きな一句なので、また別の機会に、取り上げたいと思います。

 
 

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