この記事を読むのに必要な時間は約 16 分です。

おひさしぶりです、百華です!
2026年秋の朝ドラヒロインは、作家の宇野千代(1897~1996年)!
波乱の時代を、自分の幸せを信じて生きぬいた、心身ともに美しい人ですよね。
(私は心の中で、千代ちゃんと親しみをこめて呼ばせてもらっています(笑)。)
今回はそんな宇野千代の代表作を3つ紹介します!
宇野千代を語るならば知っておきたい 『脂粉(おしろい)の顔』・『色ざんげ』・『おはん』。
基本情報はもちろん、あらすじや読みどころまで徹底解説しちゃいます!
目次
1、『脂粉(おしろい)の顔』

基本情報
1921(大正10)年に発表。
宇野千代25歳のときのデビュー作。
短編小説(見開き3ページほど)なので、初心者に最適。
あらすじ
ヒロインは横浜のカフェで働くお澄(おすみ)。あるとき、会社の支配人・フバーから、はっきりした条件がないまま、ひと月60円で世話をしたいという申し出があった。貧しいお澄はこの話にとびつく。だが、次の日に外で待ち合わせたフバーには連れがいた。しかも、若くて美しく、男好きのしそうな娘! お澄はひけ目を感じ、暗黙のうちに自分が必要とされていないことをさとってしまう。翌朝にフバーから縁を切られ、60円の話もなくなる。やりきれない思いをかかえるお澄。彼女には、おしろいをぬった自分の顔が、昼の光の下でどういうふうに見えるのかが分からないのだった。
解説&ポイント
⑴ カフェと女給
お澄は、とあるカフェで働く「給仕女」(女給ともよばれた。今でいう店員さん)です。
これが、実はとっても大事な設定!
大正時代の都市部にあった「カフェ」は、現代人になじみのあるスターバックスやタリーズなどとだいぶ違います。
当時のカフェとは、男性客にお酒やたばこを出し、客と店員がちょっとした男女のかけひきを楽しむ場所でもありました。
そのかけひきで男性が満足すると、女給にチップを渡す。そのチップが、彼女たちのおもな収入源(…)。
チップが多くほしいなら、客を喜ばせなければならない!
限りなく玄人女性に近いイメージですね。
フバーは経済力があるので、〈彼に気に入られて関係をもつ=生活するお金に困らなくなる〉ということなのです。
ただ、正式な結婚相手とはみなさなれません。
カフェで働く女性はあくまで遊び相手・軽くあつかわれがちな存在でした(…)。
(ちなみに当時の60円は現在の30万円くらいにあたります!もっと多い可能性も。)
⑵ お澄の劣等感と、タイトルの意味
後半部分のみどころは、急に出てきた「若い娘」に対するお澄の心理描写でしょう。
しかも「ひけ目」(劣等感)という、なかなかにつらい感情。
お澄は娘に比べて自分の服がみすぼらしく、メイクした顔も、うすぐらいカフェの中で何とかごまかせていただけだと気づいてしまいます。
その劣等感をあおったのがフバーでした。
お澄にとってフバーは、若い娘の魅力を見せつけ、自分の存在意義をゆらがせてくるヤツ……。
翌朝届いたのは、フバーからの絶交状です。
そして結末部分。
もう1度、とても短いどんでん返しが!!
語り手は次のようにしめくくります。
お澄には彼女の牡丹(ぼたん)の花のような脂粉の顔が、秋の真昼間の白光の下でどの程度までの幻滅を感じさせるものか、最後まで分からないのであった。ただ、60円の手当てでもつぐないのつかない、あるむしゃくしゃした糟(かす)が胸の中へたまっていつまでも取れなかった。
どういうことが言いたいか、お分かりでしょうか。
カフェは、基本的に夕方から夜・朝にかけて歓楽を提供する商売。
女給は、うすぐらい場所で映えるよう、顔におしろいをぬりたくるんですね。(タイトル回収!)
お澄に魅力があったとすれば(もちろん彼女なりの魅力があったと思いたい)、
それは〈カフェ=限定された、特殊な場所〉でしか発揮できないものだった。
だから、昼間の健全な環境でお澄を見たフバーは、彼女よりも明るい魅力をふりまく若い娘にのりかえた(…)。
こうした流れになります。
⑶ まとめ
お澄はカフェでしか生きていけず、他の場所で自分の魅力を見せるすべを知らない。
『脂粉の顔』は、お澄の存在を通して、女性にそうした人生を強いる環境や時代を批判しているのではないでしょうか。
当時、女性のまともな就職先は少なく、性差別を受けずに社会で能力を発揮することはほぼ不可能でした。
お金をかせぐために、権力のある男性にこびるしかなかった時代。
職業的スキルより、外見や性的魅力で評価された時代。
そうした時代ならではの、哀愁ただよう短編ですね。
2、『色ざんげ』

基本情報
1933(昭和8)年発表の長編小説。
パリから帰ったばかりの洋画家・湯浅譲二の目線で物語がすすみます。
(「譲二は~」じゃなく、「僕は~」という文章の1人称小説。)
あらすじ
湯浅譲二は妻子がいるが家庭内別居中で、カフェに入りびたる生活。ある日から、全く面識のない娘・小牧高尾の手紙をひんぱんに受け取るようになる。密会を重ねる2人だが、高尾が急に行方をくらました。捜索にあたって譲二が頼ったのは、高尾の友人・西条つゆ子。小牧家の没落を目の前に見つつ、つゆ子と譲二は愛しあう。しかし、実家の追及から逃れるためにつゆ子も失踪。次に出会ったのが、女学生のとも子。譲二はとも子の家庭のあたたかさに触れ、彼女と新生活をはじめる気になった。あれよあれよという間に結婚するが、とも子は現実の地味さに嫌気がさし、昔の恋人と家出。とも子を追いかけて奔走するうちにつゆ子を発見、よりを戻す。不名誉な恋はこの世で実らないと覚悟して、2人は心中を図る。
解説&ポイント
⑴ ハイカラな芸術家・湯浅譲二
あらすじを読んでこう思った人はいるはず……。
「いや、譲二も3人の女も、結局何がしたいの? 失踪しすぎじゃない?」
と(笑)。
実際に読んでみると、よけいにそう感じます(笑)。
譲二はとにかく、行き当たりばったりで行動する。なりゆきのままに流されちゃうヤツなんですね。
高尾・つゆ子・とも子は、いいところのお嬢さんで実家がきびしく、譲二との生活が長続きしません。
突然姿を消す。譲二が追いかける。このくりかえしです(笑)。
ですが!
ここでも、人物設定に注目してみましょう。
まず、外国(特に当時の先進国だった欧米)に行っていたという経歴そのものが、女性たちのあこがれをかき立てるものでした。
当時、芸術のために洋行する人なんてめずらしかったのです。帰国したらスターとしてもてはやされ、新聞に写真がのったりしました。もちろんその後の芸術活動は、うまくいくことが期待できます。
はなやかな生活を夢見たモダンガールが群がるのも、無理はありません。
特にとも子は、最初から譲二の大ファンでした。
(ファンとはいえ、彼の芸術を理解していたのではなく、有名人と仲良くなりたい!という気持ちに近い。)
譲二は、ミーハーな若いお嬢さんからアプローチを受けやすい男だったのです。
⑵ 語りの方法
実はこの小説、譲二本人が6年前をふりかえるかたちで進みます。
女性たちとのゴタゴタはすでに過去のできごとです。
よく読めば、「今思うと~」「あのときは分からなかった」などの表現がけっこう見つかりますよ。
こうした語り方(書き方)は、どのような効果を出しているでしょうか。
そう、全てが譲二の主観でしかない。
だから、まわりの人たちの真意は最後までつかめない。
テンポよく読むことはできるけれど、なんだかモヤモヤが残るんですよね。
そして、譲二の多面性。
さきほど流されやすい男と書きましたが、彼の性格はとても一言であらわせません。
家族がそろうあたたかい家にあこがれたり、逆境におちいれば急にやる気を出したり。
情報が小出しにされることで、意外な面がどんどんあらわになります。
⑶ まとめ
ちなみに。
3人の女性たちは、いわゆる「モダンガール」といって良いでしょう。
モダンガールとは、昭和初期にざんしんなファッションや考え方で一世を風靡(ふうび)した存在です。
あと忘れてはならないのが、お金の都合でなかなか離婚できない妻のまつ代。
彼女も自活にめざめたりして、いい味を出しています。
心中の結末はこの記事ではあえて明らかにしていません。
実際の文章に触れ、ハイカラな男女の化かし合い(?)を楽しんでください。
3、『おはん』

基本情報
1957(昭和32)年に文庫本が刊行。
10年かけて書かれた中編小説。
「私」という男が聞き手に向かって話すという形式。
あらすじ
「私」は7年前に妻のおはんと別れ、芸者屋を営むおかよに養われる身。おはんはおとなしい女性で、離婚直後に悟を生んだ。ある夏、町で見かけたおはんに声をかけ、彼女は「私」の店をおとずれる。会ううち「私」は1人前になる決意をし、おはんや悟と暮らす生活に惹かれていく。おかよに真実を告げることをためらいながら、おはんの期待にそむけず引っ越しの準備をはじめる。宿替えがすんでも気持ちは定まらないまま、フラフラと動き回る日々。大雨の翌日、不幸な事件が起こる。おはんは今までの感謝をつづった手紙を送り、「私」の前から姿を消した。
解説&ポイント
⑴ 迷えるヒモ男の告白
「私」は一家を支える男性ではなく、働き者のおかよがいないと暮らしていけません。
いわばヒモですね(笑)。
この小説のポイントは、筋よりも、語り手が自分の行動や心理をどう説明しているかです。
「阿呆(あほう)な心」という表現が、本文によく出てきます。
自分で自分のことを阿呆と言うのです
(今の「あほ」と大して意味は変わらないと思います(笑))。
主人公「私」の特徴は、
・昔なぜそんなことをしたのか(そんな気持ちになったのか)自分でもふしぎだ
・ばかなヤツだと人に笑われても仕方がない
と、開き直っていること(笑)。
そのうえ、優柔不断という言葉では不十分なほど決断力がない。
行き当たりばったりで適当なことを言い、あとで苦しくなる。気持ちもコロコロ変わる。
自分との戦いに負けやすいヒモ男の告白を、延々と聞かされている気分になります(笑)。
自覚があるだけ、まだマシなのかもしれませんがね…(笑)。
⑵ 色町の情緒
さっき紹介した『色さんげ』との大きな違いが、小説の舞台です。
『おはん』の舞台は色町(花街)なので、色町ならではの男女のあり方やしきたり・生活観を考慮する必要があります。
「私」は京都出身の商売人。おかよは若い芸者たちをまとめる身。
彼らは最初、客と芸者として出会いました。
2人の関係は、たとえば〈サラリーマン&専業主婦予備軍のお嬢さん〉や〈東京の学生同士〉のようなカップルとは違ったはず。
一般的な家族観や結婚制度からなんとなくズレているのは、ここに理由があるのではないでしょうか。
同時に、戦後の読者にとっても、ノスタルジックな情緒あふれる世界だったと予想できます。
⑶ まとめ
さて、この話が1番解釈に困りますね(笑)。
けれども、色々な読み方ができるのは事実です。2つほど紹介してみます。
まず、(性別に関係なく)人間の心というものの不確かさ・どうしようもなさに注目する読み方。
この男ほどではないにしても、「自分はなんであんなことをしたのか…?」とふしぎに思う経験はありますよね。
ままならない世の中にいらだったとき、自分じゃなくて周囲が悪いのだと責任転嫁してしまったり。
案外、時代を超えて共感できる、普遍的な人間心理を描いているのかもしれません。
次に、甲斐性なしのヒモ男にイライラする人も多いと思いますが(笑)、そういうときは
なぜ怒りがわいてくるのかを考えてみてください。
ズバリ、われわれ読者の常識をゆさぶってくるからではないでしょうか。
たとえば、一夫一婦制や、親は子どもを最優先しなければならないという意識。
女とはこういうもの・男ならこうすべきといった近代的な規範。
『おはん』を読めば、現代人の常識はガラガラとくずれるでしょう(笑)。
ただ、私(百華)はそれこそが文学のおもしろいところだと思います。
おわりに

いかがでしたか。
紹介した3作品は、時代・テイスト・語り口が全然違っています。
私は最初、本当に同じ人が書いたのか!?とすごくびっくりしました。
このつかみどころのなさも、作家・宇野千代の魅力でしょう。
また『色ざんげ』と『おはん』については、あえて結末をはっきり紹介していません。
彼女の小説は、ストーリーがすべてではないと感じたからです。
ぜひ、1番興味がもてそうなものから挑戦してみてください!!
【関連記事】


