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「春はあけぼの」で知られる枕草子。
 
この作品、日本初の随筆といわれていますよ。
 
作者の清少納言は、作家というイメージが強いですね。
でも、彼女は、「平安時代」に活躍した一流の女性官吏、今でいう上級国家公務員のようなお仕事をしていた人なのです。
 
今回は、「清少納言」の生涯と人間関係について、お伝えしますね。

 

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清少納言はどんな暮らしをしている人だったの?

 

 
清少納言は、平安中期、藤原道長が力をつけていく時代の、一条天皇の中宮(後の皇后)「定子」に仕えた女官です。
 
定子さまは、非常に美しく、明るく聡明な人でした。
ですから、そのサロンは大いににぎわいました。
 
当時のサロンは、清少納言など才気あふれる女性たちが、知的な遊びをして楽しみ、ときには天皇や重役たち男性が訪れて話を弾ませる社交の場だったのです。
 
 
清少納言は、和歌の名家、藤原家に生まれます。
 
父は「梨壺の五人」の1人で、すっごく有名な歌人清原元輔でした。
 
また、曽祖父は、「百人一首」にも選ばれている『古今和歌集』の代表的歌人・清原深養父です。
 
本人、父、曾祖父すべて、『小倉百人一首』に歌が選ばれていますよ。
↓  ↓  ↓
「百人一首」62番・「清少納言」の和歌
 
「百人一首」42番・「清原元輔」(父)の和歌
 
「百人一首」36番・「清原深養父」(曾祖父)の和歌

 

清少納言はどんな人だったの?

 

 
「清少納言」という呼び名は、「清」原家の出身で「少納言」という位の身内がいたからつけられたそうです。
 
あだ名ですね。
 
平安時代の女性は、一部の高貴な人以外、本名は分からないことが多いです。
というのも、当時の女性は、親兄弟や夫など、家族以外に自分の名を教えないという風習があったからなのでした。
 
清少納言も、本名ははっきり分かっていないのですが、諾子(なぎこ)という名だったという説があります。
 
彼女は、学者の家の娘という恵まれた環境で生まれ、さらに英才教育を受けて、その才能に磨きをかけました。
 
当時は、女性が学ぶとはしたないと思われがちだった白楽天などの「漢詩」の教養もあったのです。
 
でも、なぜか和歌の才が、いまいちだったのでした。
  ↓
「枕草子」は和歌の苦手な作者・清少納言の劣等感から生まれた作品だった!
 
 
15歳ぐらいで、橘則光という人と結婚しますが、10年後ほど後に離婚します。
 
2人の間に生まれた息子・橘 則長も歌人として知られる人ですよ。
 
清少納言は、その後、藤原棟世(ふじわらのむねよ)という人と再婚するのでした。
 
 
27歳頃、関白の藤原道隆にその才能を認められて、道隆の娘・一条天皇の中宮・定子に仕えることになります。
 
宮廷に上がっても、豊かな才能があるだけでなく、彼女は勝ち気で明るい持ち前の性格と機知に富む対応で、定子のお気に入りの女官になります。

 
 

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紫式部とはライバル関係だったの?

 

 
清少納言は、一条天皇の初めの中宮・「定子」(道隆の娘)に仕えました。
一方の、紫式部は、一条天皇の次の中宮「彰子」(道隆の弟・道長の娘)に仕えます。
 
仕えた女主人が、権力的にライバル関係にあったわけなのですが、実は、この2人が宮廷にいた時期はわずかにズレていて、面識はなかったのです。
 
 
清少納言は、定子が出産が原因で亡くなった後、1001年に宮廷を去っています。そして、紫式部が宮廷に上がったのは。、1005年のことでした。。
 
 
でも、うわさは聞き及んでいたようで、紫式部は清少納言のことを、「したり顔にいみじう侍る人」(『紫式部日記』)と書いています。
 
「得意顔で偉そうにしている人」ってことですよ。悪口です。

 
 

「日本初の随筆「枕草子」はどんな作品?

 

 
「枕草子」は、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」と並ぶ日本三大随筆の1つです。
 
清少納言がすごいなーと思うのは、ちょっとした出来事や目にしたことに対する感受性の強さと幅広さです。
 
特に、「かわいらしいもの」「にくたらしいもの」などシリーズものの題材の集め方が、くすっと笑えたり、うんうんわかると共感できたりしておもしろいのです。
 
そんな風に、自然や人を鋭く観察して、感じたことをズケズケと言い放った、300ほどの章からなるエッセイ集なのです。
 
 
「春はあけぼの」
「夏は夜」
「秋は夕暮れ」
「冬はつとめて(早朝)」

 
 
有名な「冒頭」は、四季それぞれのもっとも映える「時間帯」を挙げています。この「時間帯」でくぎるという視点が、新しいですね。
 
鋭い感性を感じさせます。
 
 
『枕草子』の大きな特徴は、定子の素晴らしさをとにかく称えているところ、つまり、没落していく定子の様子を一切感じさせないところです。
 
定子の父は、栄華を極めた中関白家(なかのかんぱくけ)の藤原道隆でした。
 
でも、清少納言が宮廷で勤めて1年もたたないうちに、道隆は病死してしまいます。
 
そうすると、中関白家の栄華はあっという間に崩れ去って、権力は弟の藤原道長に移ったのでした。
 
 
はかないものですね。
 
 
その後、定子は兄が左遷されて母を亡くし、一条天皇の寵愛をのぞいて、孤立無援の状態になってしまいます。
 
 
でも、『枕草子』には、後宮のそのような暗い政治的背景は、一切描かれていないのです。
 
華やかな宮廷生活、定子を中心にしたたおやかなサロンの風景、そこでの機知に富む知的遊戯の数々・・・。
 
 
枕草子は、現実の一部分を切り取った一種の虚構の作品なのです。
 
 
清少納言は、後世の人々に、明るく聡明で美しい「定子さま」のイメージだけを、伝えたかったのかもしれませんね。

 
 

清少納言の簡単年表

 

 
清少納言の正確な生没年は、不明です。
記録によると、966年から1025年ぐらいではないかと推測されます。
 
● 966年頃
中流の貴族で歌人として名高い清原元輔の娘として生まれる。
 
● 981年頃(約15歳)
橘則光(たちばなののりみつ)と結婚。
10年ほどで離婚する。
 
● 993年(約27歳)
中関白・藤原道隆から娘・定子(当時17歳)の教育係になるように頼まれます。
 
● 995年(約29歳)
定子の父・藤原道隆が亡くなり、道隆の弟・藤原道長が権力を握る。
 
● 1000年(約34歳)
定子が出産時に崩御。
清少納言、宮廷を去る。
夫・藤原棟世と共に摂津国へ下ったといわれる。
 
● 1025年頃(約59歳)
死去。