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こんにちは。
 
 
白樺派を代表する文豪・志賀直哉は、生まれは宮城県、育ちは東京都ですが、奈良で9年(46歳~から55歳まで)ほど暮らしたことがありました。
 
 
奈良では家を建てたのですが、それが435坪もの和洋折衷の大邸宅(←すごく志賀さんらしい)だったのです。
 
 
そして、「小説の神様」志賀直哉の邸ということで、そこにはたくさんの文人・芸術家が集まるようになり、「高畑サロン」と呼ばれるようになりました。
 
 
なんといっても、めちゃくちゃ広くて旅館のように部屋が余っていますから、集会にもってこいの場所だったでしょう。
 
 
場所も、いい所なんですよ。春日大社、東大寺から徒歩圏の閑静な住宅街にあります。

 
 

志賀直哉旧居「高畑サロン」は435坪の大邸宅

 

 
 

 
志賀直哉の旧邸は、今は登録有形文化財に指定されています。
 
一般公開されているので、誰でも入ることができますよ。入館料は大人が350円です。

 
 

 
 

 
浮見堂方面から高畑への道には、奈良ならではの交通標識が!
 
 
実際、もう少し奈良公園近くの道で鹿がポクポク道路を横断するのを見かけましたが、車は鹿さまがお通りになるまで静かに止まって待ってました。
 
 
インドの牛みたいですね。でも、奈良の場合は(今となっては)神格化されているのではなく、人と鹿が社会な共生関係にあるようでおもしろいです。
 
 
鹿がいなければ、奈良はますます観光客が来なくなるし、鹿が食べてくれなければ若草山など付近の「芝」の維持費に毎年6億円ほどかかるのだそうですよ。
 
 
鹿が、芝の手入れをしてくれているのです。(食べてるだけだけど)

 
 

 
さっきの鹿標識の車道から北に曲がって住宅街をてくてく上ると、志賀直哉旧居に到着です。
 
 

 
435坪の敷地に134坪(約443平方メートル)の数寄屋(すきや)作りの建物という、旅館のようなお屋敷です。
 
 
この大邸宅で、志賀直哉は、『暗夜行路』を完成させました。

 
 

 
こちらが玄関です。ここから靴を脱いでお邪魔します。
 
 

 
入って左側に受付のある廊下が。
まずは、2階からと順路が決まっています。

 
 

 
2階の書斎、6畳和室です。隣の10帖の客間とふすま1つでつながっています。
 
 
すごく日当たりがよく、眺望が素晴らしい!

 
 

谷崎潤一郎から譲り受けた1500万円の「仏像」

 

 
隣の客間には、「仏像の写真」がありました。
ここに「例の仏像」が飾られていたんですね。
 
 
志賀直哉は、谷崎潤一郎と一緒に、奈良市内の骨董屋に骨董を買いに行ったことがありました。(1927年)
 
 
そして、そのとき谷崎潤一郎は3000円(今の物価で約1500万円)の「観音菩薩像」を即決購入したのです。
 
 
実は、骨董屋から話を聞いているうちに、同行していた志賀直哉も 「これ、欲しいな~」と思い、もし谷崎が買わなければ自分が買おうと思っていたそうです。
 
 
でも、先に谷崎が買うと決めてしまったので、悔しくなってそのときの骨董購入資金をこの旧居の建築費用に充てたのだとか。
 
 
2人ともセレブすぎのエピソードでした。
建築費に充てるならまだしも、仏像に1500万円って・・・(-“-)
 
 
5年後、谷崎が引っ越しで物を整理した際、その仏像を志賀直哉に譲ってあげたそうですよ。よかったですね。

 
 

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小林多喜二が泊った客間

 

 
この2階の10帖の客間は、小林多喜二が泊った部屋でもあります。
 
 
生まれも育ちもおぼっちゃまの志賀直哉。先程の仏像のようなセレブエピソードには事欠きません。
 
 
でもなぜか、東北の貧農の家で生まれ育った小林多喜二と親交があったのです。きっかけは、小林多喜二が志賀直哉をたいへん尊敬していて、何度も手紙を送ったことでした。
 
 
小林多喜二といえば、プロレタリア文学の代表作家で、特高(特別高等警察)に捕らえられ壮絶な拷問死をとげた人ですね。
 
 
当時は軍による言論弾圧が非常に厳しい時代で、そんなことが「昭和」の時代にあったのかと思えますが、とらえられ拷問死した人は少なくありませんでした。
 
 
小林多喜二が「高畑サロン」を訪れたとき、彼は一度、特高に捕まった後の仮保釈の身でした。
 
 
小林はお酒や賭け事などの遊びに興味がなかったので、志賀は自分の息子も連れて「あやめ池遊園地」に行って遊んだそうです。
 
 
志賀は小林多喜二に、とても穏やかで自分の思想を押し付けることもなく人の話をよく聞く青年だと好印象を持ちました。
 
 
志賀直哉は上流出身の多い白樺派の代表でしたが、どんな人も差別することなく受け入れる心の広い人だったと分かります。
 
 
コミュ力ニケーション力の高いリア充セレブ作家は、大らかなのでした。
 
 
その後、志賀直哉は小林多喜二に手紙を送り、『蟹工船』はよくできた作品だとほめ、共産主義のプロパガンダに使われないようにと注意しています。
 
 
手紙が届くと、小林はとっても喜んだそうですよ。
 
 
それからしばらくして、小林多喜二は、特高に捕らえられました。そして、3時間にも及ぶ壮絶な拷問のあげく殺されたのです。
 
 
その遺体は全身が打撲による内出血で異常にはれあがり、10カ所以上釘を打ち込まれた跡があり、歯も指の骨も折られていたそうです。
 
 
そんな状態でも、特高の発表した死因は「心臓麻痺」でした。
 
 
このときは、小林多喜二のお葬式に出ようとした者も捕らえられるなど、特高の弾圧がすごく厳しく、文壇も沈黙を守るしかなかったようです。
 
 
志賀直哉は、そのとき小林多喜二の母に「不自然なる御死去の様子を考え、暗澹(あんたん)たる気持ちになりました」と、香典と弔文を贈っています。
 
 
そして、自分の日記に「小林多喜二(余の誕生日に)捕らへられ死す、警察官に殺されたるらし、不図彼らの意図ものになるべしといふ気がする」と、記しました。
 
 
小林多喜二が亡くなったのは、志賀直哉の誕生日(2月20日)だったのです。

 
 

1階には大きな食堂とたくさんの和室が!

 

 
 

 
こちらは、1階洋間の書斎です。
 
 
かなり写りが暗いです。この部屋は北向きで日当たりが悪いのですが、志賀直哉はその「北向き」というのにこだわりがあったようです。思索に耽るとき、落ち着けるのでしょうか。

 
 

 

 
夫人の部屋に子供部屋など。とにかくたくさんお部屋があります。
 


 
洗面室と浴室です。右側のお風呂場がかなり広いです。下が石(タイル?)だったので、すごく冷たそう。冬はかなり寒いですよ。
 
 

 
 
こちらは台所です。台所も広いですね。その隣に食堂があります。
 
 
また、もう一方の隣は小さな女中部屋があります。食事を作る女中さんたちの休憩部屋でしょう。

 
 

 
 
食堂です。
ご、豪華すぎでしょ。
 
 
確かに大家族ではありますが、さすがにセレブです。
 
 
この食堂の続きにサンルームが造られ、そのまま庭で遊ぶことができますよ。

 
 

 
 
お庭も子供たちが十分遊べる広さです。小さいプールも作られていたそうですよ。
 
 

 
邸内には「池」までありました。
 
 

おわりに


この「高畑サロン」には、小林多喜二、谷崎潤一郎の他、武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄、瀧井孝作など、多くの文人、芸術家が集い一大文化圏を作っていたといわれます。
 
 
志賀直哉が東京に戻ってから何人かの手に渡って、今は有形文化財として保護されています。維持が大変だと思いますが、こういう建物は是非このまま残してほしいです。
 
 
今は、ときおり、週末に奈良学園がセミナーハウスとして使っているようですよ。
 
 
公開文化講座などが開かれています。

 
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