この記事を読むのに必要な時間は約 8 分です。

99番・100番の歌人は「承久の乱」(1221年)の敗者です。
 
後鳥羽院・順徳院は、共に和歌の名手であり、後鳥羽院は歌人たちの後援者でもありました。
和歌が大好きで、非常に情熱を持っていた院です。
 
「承久の乱」は、鎌倉幕府と朝廷の対立で、幕府側の圧勝に終わりました。
 
源頼朝亡き後、鎌倉方が後継争いをしていたのに乗じ、後鳥羽院たちが、もう一度、政権を取り戻そうと試みた争いです。
後継争いで暗殺された3代将軍・源実朝(93番)は、藤原定家に歌を習っていた「百人一首」の歌人です。
実朝を暗殺した公暁もまた殺され、幕府の実権は北条政子とその弟・北条義時が握っていました。

スポンサーリンク

<参考>鎌倉の右大臣=源実朝の歌

 
貴族の時代から武士の時代へ、時代は移り変わろうとしていました。
 
乱の敗北後、後鳥羽院は隠岐に、順徳院は佐渡に流刑となりました。
 
その後も彼らの歌への情熱は途絶えず、後鳥羽院は隠岐で「歌論書」を書き残しています。
 
彼は、定家より18歳年下の君主でした。
和歌についての意見の違いから、定家とは対立したまま別れています。

99.後鳥羽院


後鳥羽院(1180~1239年)は、高倉天皇の第四皇子です。
「源平の合戦」後、平氏が安徳天皇を奉じて下ったとき4歳で即位します。
 
19歳で皇位を譲り「院政」をしきましたが、鎌倉幕府と対立します。
3代将軍源実朝暗殺事件の後、「承久の乱」を起こし敗北。
隠岐へ流されて、19年後にその地で崩御しました。
 
歌の名手で、様々な歌会を催し、藤原定家らに『新古今集』編纂を命じました。
この歌は、後鳥羽院が33歳のときに詠んだ歌です。

 
人をもし 人もうらめし あぢきなく
世を思ふゆえに もの思ふ身は

 

【覚え方】人をも世を思う

あるときは人を愛おしく思う。そして、またあるときは人を憎く恨めしく思う。つまらない世の中だと思いを巡らす私にとっては。

 

「あぢきなく」は「おもしろくなく・つまらなく」という意味です。
「世を思ふ」は「世間のことを思いわずらう」という意味です。
「もの思ふ」は自分の心に湧きおこるさまざまな物思いのこと。
「身」は作者自身のことを指しています。
 
院の歌にしては、全体的にどんよりとした憂鬱さが漂います。
貴族社会の終わりにわが身を重ねる感慨が表れています。
 
すでに政治権力は鎌倉方に奪われていましたが、歌会など華やかな催しを数多く執り行い、貴族の復権を夢見ていたのがわかります。
定家がこの歌を選んだのは、元君主への定家なりの思いがあったのでしょう。

100.順徳院

 

スポンサーリンク

順徳院(1197~1242)は、後鳥羽天皇の第3皇子で、14歳で第即位しました。
父・後鳥羽院と共に企てた「承久の乱」に破れ、佐渡へと流されました。
 
歌の師は藤原定家(97番)です。

<参考>権中納言定家=藤原定家の歌
定家の息子・藤原為家とは同世代で、蹴鞠仲間でした。
父と同様に歌の名手で、歌学書『八雲御抄(やくもみしょう)』を残しています。
 
この歌は、順徳院が20歳の時に詠んだ歌です。
まだ「承久の乱」を起こす前です。

 
百敷(ももしき)や 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり

 

【覚え方】ももなをあまり

宮中の古くなった軒端に生えている「しのぶ草」を見ていると、いくらしのんでも忍びきれないのだ。とうに過ぎ去ってしまった昔の、あの輝かしい御代のことが。

 

「百敷(ももしき)」は「内裏」や「宮中」の意味です。
「古き軒端の」は、宮中の古びた建物の軒の端のことです。
 
「しのぶにも」の「しのぶ」は、「昔の栄華を懐かしく思う」と、軒からぶら下がっている「忍ぶ草」の掛詞です。
 
「昔なりけり」は「昔なのだなあ」という意味ですが、「昔」は、この歌では皇室や貴族の栄えていた醍醐天皇・村上天皇の在位していた時代を指しています。
 
この歌は、「承久の乱」の前に詠まれたものですが、順徳院がすでに貴族の没落を深く悲しんでいたことが分かります。

おわりに

百人一首最後の2首は、撰者・藤原定家が仕えた後鳥羽院とその息子・順徳院の歌です。この2首は「雑(ぞう)」の歌に分類されます。
 
「百人一首」の選者が藤原定家だというのに異論を唱える人たちは、この最後の2首を根拠にしています。
時の罪人を、和歌集に選ぶことはないのではないかという考えです。
 
また、後に、定家の子孫がこの2首を付け足したのではないかという説もあります。しかし、今となっては、真相は藪の中です。
 
「百人一首」1番・2番と最後の99番・100番は、共に親子の天皇です。
 
<参考>1番・2番は天智天皇・持統天皇親子です。↓


 
始めの2首の天皇で天皇家・貴族の支配が始まり、最後の2首の天皇で天皇家・貴族の支配が終わり、武士の時代が台頭します。
 
見事に呼応していますね。
始めと最後は、明らかに意図的に選ばれたものです。

 

追記

後鳥羽院・順徳院の時代は、武士が貴族の雇われ者の地位からのし上がり、政治の中心に躍り出て鎌倉幕府を開いた後でした。
 
そもそも後鳥羽院は、壇ノ浦で散った安徳天皇の後釜として、「三種の神器」を持たずに4歳でかつがれて即位した天皇です。

<参考>「天皇」と「三種の神器」の関係について

栄華を誇っていた平安の王朝、そして貴族たちはすでに没落していました。
 
順徳院の歌からは、貴族の全盛期だった醍醐・村上天皇の時代の再興をと願う気持ちが、非常に強く感じられます。
 
そしてまた、貴族の没落は、貴族文化の衰退を意味します。
 
藤原定家が、この2人を選んだという説をとると、貴族文化の象徴ともいえる和歌の集大成として、「百人一首」の最後を「この2首」で締めたのは、非常に大きな意味があると思います。

 
 

「百人一首」全首の詳細はこちらから(´▽`)♪↓

 

スポンサーリンク