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崇徳院は、5歳天皇となり18年間位につきましたが、鳥羽上皇に譲位をせまられ弟・近衛天皇にその座を譲ります。
 
その弟が崩御した後、息子の重仁親王を天皇にと願いましたが、やはり鳥羽上皇の考えで後白河天皇に位を奪われます。
 
そして鳥羽上皇の死後、後白河天皇と、どちらの皇子を天皇にするかで争って破れたのが「保元の乱」です。
 
崇徳院は無念の思いが強く、怨霊になって天皇家を呪っているなどという伝承があります。また、『今昔物語』の中では、西行が讃岐を訪れたとき、怨霊となって現れました。
 
しかし、彼は『詞花和歌集』を編纂させ、多くの歌会を催した文化的な貴公子でした。

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77.崇徳院(すとくいん)


 
崇徳院は、鳥羽天皇の息子(本当の父は白河院ともいわれる)です。
「保元の乱」で敗れ、讃岐に流されたことで歴史上よく知られる人物です。
 
強い恨みから魔王(天狗?)になったなどと言い伝えられますが、実際は、和歌や管絃を愛する人でした。
 
この歌は、1150年に、崇徳院が藤原俊成(83番)(定家の父)に命じて編纂させた「久安百首」の中の1首です。

 
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に 遭はむとぞ思ふ

 
【覚え方】瀬をわれて

川の流れが速いので、岩にせき止められて川の急流が二手に分かれてしまうけれど、その水が最後には合流するように、私たちも一度別れたとしても、必ず巡り会いましょう。


「逢はむとぞ思ふ」は、「水がまた合流する」と「別れた男女が再会する」の2つの意味を掛けています。
「必ず逢いましょう」という意味です。
激しく燃えさかる情熱を、素直に表現した歌です。
離れ離れになってしまった恋人との再会を望む強い想いが伝わりますね。
 
崇徳院の流された讃岐は、現在の四国・香川県です。
そこには、崇徳院ゆかりの史跡が残り、崇徳院が暮らした「雲井御所」や、遺体が葬られた「白峯山」などがあります。
 
明治になってから崇徳院は都(京都)で弔われ、神社に祀られることとなりました。
 
それが「白峯神宮」です。↓

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78.源兼昌(みなもとのかねまさ)

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源兼昌(みなもとのかねまさ)は、生没年未詳です。12世紀初頭の人)。
出家後も多くの歌合せに招かれ、「兼昌入道」と称されました。
須磨(現在の神戸市須磨)は、在原業平(17番)の兄・行平(16番)が、一時流れ住んだ場所です。
 
その実話を元にして、紫式部が『源氏物語』「須磨の巻」を創作したといわれます。
光源氏が、いっとき謹慎生活を送っていた須磨で詠んだ歌がこちらです。↓
 
「友千鳥 もろ声に鳴く暁は ひとり寝覚の 床もたのもし」
(夜明け頃、一人寂しく目覚めても、千鳥の鳴く声がしているから心強いさ)
 
 
兼昌の歌は、これを踏まえて詠んだものですが、実際に須磨で詠んだのではありません。詠んだのは歌合せの席で、お題は「関路ノ千鳥」でした。

 

あわじしまかよふ千鳥の 鳴く声に
いくよ目覚めぬ 須磨の関守

 
【覚え方】淡路島行くよ

須磨の浦から淡路島へと行き来しながら、恋人を呼んでなくせつなげな千鳥の声に、いったい幾夜目を覚ましてしまったのだろうか須磨の関守は。

「千鳥」は、水辺に住む小型の鳥です。
冬の浜辺を象徴する鳥で、家族や友人を慕って寂し気に鳴く鳥とされていました。
 
お題の「関路千鳥」の「千鳥」はこの鳥。
そして、「関路」は『枕草子』の「関は逢坂、須磨の関」を踏まえて、関守に着目しました。
 
淡路島の方から渡ってくる千鳥の寂しい鳴き声で目覚める関守の孤独感が、ひしひし感じ取れますね。

 
「百人一首」全首の詳細はこちらから(´▽`)♪↓

 

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