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そろそろ「保元の乱」「平治の乱」「源平の合戦」が近づいてきました。
簡単な時代背景を説明しますね。
 
藤原氏の力は弱まり、権力は天皇を退いた上皇が握る時代に入ります。
いわゆる「院政」です。
 
「保元の乱」は、1156年に天皇の皇位継承争いと藤原氏の家督争いが重なって起こりました。
後白河院崇徳院が皇位の継承をめぐり対立し、藤原忠通頼長兄弟の藤原家の家督をめぐって対立したのです。
(藤原忠通が76番の「法性寺入道前関白太政大臣」というまどろっこしい名称の人です。)
それぞれが二手に分かれて争っただけでなく、その頃から勢いを持ち始めていた源氏平氏の武士勢力もこの戦いに加わりました。
 
藤原忠通(76番)は、「保元の乱」で後白河院に味方します。
他に、平清盛や源義朝(頼朝の父)も後白河院につき戦に勝利しました。
 
敗北した崇徳天皇は、讃岐に配流されました。

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75.藤原基俊


 

藤原基俊は、漢詩や和歌の才能がありました。
しかし、攻撃的な性格で、あまり出世できなかったそうです。
 
歌人として源俊頼(94番)のライバルだったといわれます。
藤原定家(97番)の父・藤原俊成(83番)の若いころの師です。
 
この歌は、詠まれた背景を知らないと分かりにくいです。
 
藤原基俊の息子は、奈良・興福寺の僧侶でした。
興福寺では、毎年10月10日から16日まで維摩講が行われます。その大変名誉な「講師」に是非息子をと、基俊は前の太政大臣・藤原忠通(76番)に頼んでいました。
その依頼に忠通はこう応えます。
 
なほ頼め しめぢが原の さしも草 われ世の中に あらむ限りは
 (私を一心に頼りなさい。たとえあなたがしめじが原のよもぎのように思い悩んでいても)
 
つまり、「大丈夫! 私にに任せなさい。」といったのです。
ですが、その年も息子・光覚は講師に選ばれませんでした。
カガーン(;゚Д゚)
 
そして、そのことを恨みに思って詠んだ歌がこちらなのです。

 
契りおきし させもが露を 命にて
あはれ今年の 秋もいぬめり

 
【覚え方】契りあわれ

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お約束いただいた「しめぢが原のさせも草」についた露のように、はかないお言葉を命としていましたのに。ああ、約束が果たされぬまま今年の秋も、もう過ぎ去ってしまいますよ。

「契りおき」は「約束しておく」という意味です。
「おく」は「露」の縁語です。
「させも草」は、平安時代の万能薬だったヨモギのこと。
 
「露」は恵みの露という意味になり、「まかせておけ」とほのめかしたと思われます。
 
約束を守ってもらえず、今年の秋もただ過ぎ去ってしまうなあという無念さがにじみでた歌ですね。

76.法性寺入道前関白太政大臣


 
法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)。
 
本名は藤原忠通です。
藤原忠実の息子。若いうちから藤原氏の長となり、詩歌や書の才能もありました。晩年は出家して「法性寺殿」とよばれます。
 
「保元の乱」で後白河院に味方しました。
つまり崇徳天皇の敵方になったわけです。
 
しかし、この歌は、争いが起こる以前に崇徳天皇の前で詠んだ歌です。
お題は「会場の遠望」でした。

 
わたの原 漕ぎ出でてみれば 久方の
雲居にまがふ 沖つ白波

 
【覚え方】わたの雲居

大海原へと船をこぎだして眺めてみると、はるか遠くの沖には雲と見間違えてしまうほど、真っ白な波が立っているよ。

「久かたの」は「雲居・天・日・月・光」などにかかる枕詞です。
 空と海の青、雲と波の白を見事に対比させています。
美しい色彩のコントラストが、目に浮かびますね。
 
この歌を読んで、どこかで読んだと気づいたでしょうか。
この「上の句」。
 
そう、小野篁(おののたかむら)=参議篁(11番)の歌ですよ。
「わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船」
 
藤原忠通は、小野篁のこの歌をイメージして詠んだといわれています。
しかし、歌にこめられた心情は、全く異なりますね。

 
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