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藤原通雅は藤原道隆の孫、藤原伊周の息子です。
藤原伊周が叔父の藤原道長との争いに負けたとき、道雅は5才でした。
 
藤原定頼は、藤原公任(55番)の息子です。
恋人に小式部内侍(60番)や大弐三位(58番)相模(64番)がいます。
才媛好みだったのでしょうね。
 
道雅、定頼、その恋人たちは、みな50番台はじめの道長台頭期に宮廷を賑わせた貴族の二世です。
代替わりしているのが、読み取れますね。

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【参考】
55・56番「藤原公任」と「和泉式部」の歌
57・58番「紫式部」と「大弐三位」の歌
59・60番「赤染衛門」と「小式部内侍」の歌

63.左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)


 
藤原道雅は、藤原道隆と儀同三司母(54番)の孫でありながら、父の伊周が権力争いに負けてから、出世の見込みがなくなりました。
そんな時、彼は1人の女性に出会います。
 
その人は伊勢の斎宮を務めた三条天皇(68番)の第一皇女・当子内親王でした。
 
藤原道長は、一条天皇の後を継いだ三条天皇を廃位に追いやり自分の孫の後一条天皇を即位させました。後一条天皇は、一条天皇と彰子の皇子です。
 
道雅と当子内親王の逢瀬は、父親の三条院に知られることとなり、二人は引き裂かれます。左遷が決まった道雅は、出立するときに、お別れの文を屋敷の門前の木に結びました。(『栄華物語』より)
それがこの歌です。

 
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな

 
【覚え方】今は人づて

「今となっては、もうこの恋はあきらめたよ」と、ひとことだけでも人伝えなんかじゃなく、お前の目をみて直接言いたかった。

「人づてならで 言ふよしもがな」という下の句に、道雅の純粋な想いが表れていますね。
 
三条院はたいそう嘆いて、それからしばらくして亡くなります。
当子は出家しましたが、こちらも若くに亡くなりました。
 
道雅は荒んだ生活を送り、「荒三位(あらさんみ)」というあだ名でよばれるようになります。
 
誰もが不幸になった切ないお話しでした。

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【参考】祖母の「儀同三司母」の歌


 

64.権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)


 
藤原定頼は、公任公任(55番)の息子で、幼いころから漢詩、和歌、管絃の英才教育を受けました。
恋多き貴公子で、和歌の才のある知的な女性が好みだったようです。
 
和泉式部の娘・小式部内侍が60番の歌を詠んだエピソードの登場人物です。

 
【参考】「小式部内侍」の歌とエピソード

 
この歌は、美しい宇治の風景を歌っています。
京都南部の宇治周辺は、平安時代には貴族の別荘が多く建てられていました。
『蜻蛉日記』や『更級日記』にも登場するリゾート地です。
平安時代後期になると、頻繁に歌に詠まれるようになります。
 
公任の息子なら、『源氏物語』の宇治十帖を読んでいるでしょう。
それなら猶更、この風景は美しく感じるでしょうね。

 
朝ぼらけ 宇治の川霧(かはぎり) 絶えだえに
あらはれ渡る 瀬々の網代木 (あじろぎ)

【覚え方】朝ぼらけに現れる

だんだんと夜が明けるなか、宇治川にたちこめていた川霧が晴れ始めて、その絶え間に、浅瀬にあるアユの稚魚捕りの網代木(あじろぎ)が見えてきた。なんて幻想的なんだ。

「あらはれ渡る」は複合動詞。
「あちらこちらに見えてくること」を意味します。
 
宇治川に立ち込めた霧が、刻々と変化していく様子を、まるで映像を伝えるかのように詠みあげています。
霧が晴れていくにつれて「網代木」が現れてくる様が目に浮かぶようですね。

 

 
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