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「百人一首」49番の大中臣能宣は、「梨壺の五人」の一人です。
「大中臣氏」は「中臣氏」がルーツの由緒ある家系で、
代々世襲で「伊勢神宮の斎主」を司りました。
 
50番の藤原義孝は、父が謙徳公・藤原伊尹(これただ)という
藤原北家の主流でしたが、質素な生活を好み、熱心な仏教徒でした。
また、美男で人柄もよかったと伝えられています。
21歳のときに、流行り病(天然痘)で亡くなりました。

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大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶあそん)


 
大中臣能宣は、伊勢神宮の神官長を代々勤める家系です。
伊勢大輔(いせのたいふ)(61番)の祖父です。
 
「梨壺の五人」に選ばれるほど和歌の才能がありました。
三十六歌仙の一人です。
藤原兼盛(40)清原元輔(42)曾禰好忠(46)などと親交がありました。
 
伊勢で祭司となる前は、宮仕えをしていました。
これは、そのときに詠んだ歌です。

 

御垣守(みかきもり) 衛士(えじ)のたく火の 夜は燃え
ゆる場消えつつ ものをこそ思へ

【覚え方】みかきも昼は消え

宮中の門を警護する衛士たちが燃やす火のように、夜は激しく燃え上がり、昼は消えそうなほどささやかになる私の恋心だよ。

「ものをこそ思へ」の「ものを思ふ」は、「恋をして思いにふける」という意味です。
 
昼と夜とで、自分の恋心に温度差があることを詠んだ歌ですが、夜の暗闇の中に浮かび上がる衛士のたく「かがり火」の美しさを見事に読み手に想像させます。
 
夜はかがり火のように燃え上がり、昼は火種としてわずかに残される火というコントラストが際立ちますね。

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藤原義孝(ふじわらのよしたか)


 
藤原義孝は、一条天皇の摂政の謙徳公・藤原伊尹(これただ)(45番)を父に持つ一級の貴公子です。
和歌の才豊かで熱心な仏教徒でもあった藤原義孝は、21歳で夭逝します。
 
当時は、天然痘などの伝染病が一旦流行すると、次々に人が亡くなりました。
義孝は兄の拳賢と同じ日の朝、同じ天然痘で亡くなりました。
 
義孝の息子は、藤原行成です。
百人一首には選ばれていませんが、ゆかりの人が登場します。
歴史上の重要人物ですので、少し紹介します。
 
藤原行成は和歌は得意ではなく、書の達人で三蹟(さんせき)の一人です。
「三蹟」とは書道の大御所三人のことで、後々の書家に大きな影響を与えた人たちです。後の二人は小野道風、藤原佐理です。
 
藤原実方(51番)と不仲だったことはよく知られていて、清少納言(62番)の恋人でした。
 
行成は偉大な祖父と父が次々と亡くなったため、御曹司の割に少年時代は不遇でした。
転機は23歳のときに訪れます。
藤原道長の時代に「蔵人頭(くろうどのとう)」に引き立てられたのです。
そこから順調に出世していきます。
 
この人は「書」という一芸があるから強いです。
三蹟の中でも、一段高く評価されていますから。
 
 
余談が長くなりましたので・・・
そろそろ美貌のパパ・義孝の歌に戻りますね。(^^;

 

 

君がため 惜しからざりし 命さへ
長くもがなと 思ひけるかな

【覚え方】君がため長く

あなたのためなら、いままで惜しくないと思ってきた僕の命だけれど、思いが通じた今、あなたといつまでも長く一緒にいたいと思うようになったんだ。

恋の激情を表している割には、なんともはかなげな雰囲気が漂います。
恋が叶い、生きることに執着を感じたというところが、熱心な仏教徒だった義孝らしいです。
 
この歌は、「後朝(きぬぎぬ)の歌」です。
 
平安時代の結婚は「通い婚」でした。
一般的には、男性が女性のところへ三日続けて通えば、めでたく結婚成立とされました。男性は、まだ夜が明けぬうちに帰るのが恋人との逢瀬の(始めの頃の)マナーです。女性はまだ眠っていますので、逢瀬の後、次の朝に一首歌を贈る習わしがありました。
 
ここで気の利いた歌(ラブレター)を詠めるかどうかが、腕の見せ所ですね。
そのときに詠む歌を「後朝(きぬぎぬ)の歌」といいます。
 
恋をうまく運ぶためにも、歌の才能は必要だったとわかります。
もちろん、それだけではダメでしょうけど。(´・ω・)

 
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「百人一首」まとめ記事~全首の意味・覚え方とおすすめ参考文献!


 

 

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