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「百人一首」15番の光孝天皇が即位後3年で亡くなった後、天皇は清和天皇の嫡子・陽成院の子に戻らず、皇系が光孝天皇の子・孫(→宇多天皇→醍醐天皇)へシフトします。

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それから40番近くの人までこれらの天皇の御代です。
権力の中枢にいるのは藤原基経の子・藤原時平→忠平(26番)です。

三条右大臣=藤原定方(ふじわらのさだかた)

藤原定方は宇多天皇、醍醐天皇に仕えました。
「右大臣」になりますが、トップの「左大臣」はずーっと藤原忠平(26番)です。

定方の特徴は、政治家というよりは和歌や管弦に優れた教養人で、数々の歌人たちの後援者になったことです。
従妹で風流仲間の藤原兼輔(27番)と共に、紀貫之(35)らが古今集を編纂する後ろ盾となりました。

 

名にしおはば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな

【覚え方】何塩(しお)人に知らで

逢坂山のさねかづらよ。その名のとおり恋しい人に「逢って」「さ寝」たいものだ。そのツルを手繰り寄せて、誰にも知られずに君に会えたらいいのになあ。

歌のテーマとして人気のあった「忍ぶ恋」を詠んだ歌です。
「さねかずら」はつる性の低木で、夏に淡い黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がなります。

「逢う」と「逢坂」「さねかずら」と「小寝(さね)」「来る」と「繰る」など掛詞がたくさん用いられた技巧的な歌でもあります。

貞信公(ていしんこう)=藤原忠平

藤原忠平藤原基経の4男で、菅原道真(菅家24番)と敵対した藤原時平の弟です。
「貞信公(ていしんこう)」は送り名です。
兄とは異なり、道真とは懇意でした。

時平亡き後、醍醐天皇時代の政事の中心人物になります。
数々の伝説の主人公でもあります。


小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ

【覚え方】小倉いまちゃん

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小倉山の峰の紅葉よ。もしお前に心があるならば、もう一度、今度は醍醐天皇がいらっしゃる日まで美しいまま待っていておくれよ。

 

これは宇多上皇の大堰川(保津川)への御幸の際に詠んだ歌です。
秋の嵯峨・嵐山の見事な紅葉を見て、宇多上皇が、「我が子(醍醐天皇)にも見せたいものだ。」と呟いたのを受けて詠んだといわれます。(拾遺集)

紅葉に語りかける「擬人法」を用いています。
「醍醐天皇にもこの見事な景色を」と望む心が、素直に届きますね。

 

追記


藤原忠平は兄の時平、仲平とともに「三平(さんぴら)」とよばれます。

あるとき、醍醐天皇の元にひとりの「人相見」が来ました。
天皇が御簾から出られなかったため、人相見は代わりにその場にいた臣下の人相を見ました。
そして、
保明親王には「容貌が美しすぎる」
藤原時平には「知恵がありすぎる」
菅原道真には「才能がありすぎる」
と占いました。
その後、末席近くにいた忠平を指して、
「この方は容姿も知恵も才能も兼ね備えた、この国を治めるのにぴったりのお人です。長くお仕えすることとなりましょう。」
と告げました。
それを聞いた宇多天皇は、娘を忠平の妻にします。
後に忠平は、右大臣→左大臣→摂政→関白とのぼりつめ、村上天皇の世まで政事に従事しました。
一方の、保坂親王は21歳で逝去、
道真は大宰府に左遷され2年後に失意の中で無くなり、時平は「道真公の祟り」(といわれる)により39歳で亡くなります。

忠平は道真を尊敬していて、大宰府に去った後も手紙を送り交流を続けていました。
そのため、藤原一門ですが「道真の祟り」を受けなかったといわれます。
この話は結構有名ですが、もちろん「伝説」です。
少々話が後づけっぽいですね。

 
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