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こんにちは~、このかです。
 
お正月に「百人一首」で、かるた遊びをしたことはありますか?
 
このかるた、正式な遊び方は、全国大会も開かれる正式な「競技」なんですよ。
 
百人一首の札には2種類あって、1つは、「坊主めくり」などで使われる絵札、そしてもう1つは、短歌が書かれた文字だけの札です。

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小倉百人一首

 

 
百人一首の選者は、藤原定家といわれますね。
 
でも、実は「百人一首」にはいろいろあって、藤原定家の他にも私選和歌集を編纂した人はいるのです。定家が選んだ百人一首は、正確には「小倉百人一首」とよばれています。
 
藤原定家は、鎌倉時代初期の歌人で、「新古今和歌集」の選者のひとりでもあります。
 
また、「源氏物語」など、古典の研究者としても業績を残しています。
 
 
あるとき、定家の親類の宇都宮頼綱が、京都の嵯峨野に別荘・小倉山荘を建設して、短歌を襖色紙の装飾にしたいなと考えました。
 
そして、「そうだ定家に頼もう!」と思いついて頼み、定家が編纂したのが、この「小倉百人一首」といわれています。
 
百人一首の始めのほうは、万葉の歌人たちの歌が続きますよ。
 
万葉の人々は自然の中で生活し、風景や季節を見て感じた歌を、数多く残しています。
 
百人一首を追っていくと、時代と共に、短歌の対象やテクニックが変わっていくのがわかります。
 
まずは、はじめの2首を見ていきましょう。

 

1.天智天皇(てんじてんのう)


 
天智天皇(中大兄皇子)は、歴史的に、とっても有名な人です。
藤原鎌足(中臣鎌足)とともに曽我氏を倒し 「大化の改新」を断行しました。
 
この「大化」というのは日本初の「元号」です‼
 
彼は、「昭和」「平成」と今も続く「元号」を初めに制定した人なのでした。
最初に戸籍(庚午の年籍)を作った人でもあります。
 
そして、「大化の改新」は政治改革でした。
天智天皇は即位後に、「班田収授の法」「租庸調制」などの法整備を行い、中央集権制の強化に努めたのです。
 
また彼は、政治の手腕だけでなく学問や和歌の才もありました。
 
 
百人一首の1番に選ばれたのは、この歌です。
 
 
秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ

 
 
【覚え方】 秋の露にぬれつつ 

 

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秋の田のほとりに作った仮小屋に泊まって刈り取った稲の番をしていると、小屋の屋根をふいたり、小屋回りをかこんだりしている苫の目が隙間だらけで冷たい夜露が忍び込んでくる。
その夜露に着物の袖がぬれてしまっているなあ。

 

どんな歌かと思いきや、なんと農民目線の歌でしたね。(´・ω・)
 
この歌は、農作業で泊まりの番をする農民の夜の様子を描いたものです。
 
静かに黙想する静寂さと晩秋の夜の透明感が伝わり、なんとも思索的な雰囲気が感じられますね。
 
藤原定家は、この歌を静寂な余情を持つ歌として「幽玄体」の例としています。

 

2.持統天皇(じとうてんのう)


 
持統天皇は天智天皇の第二皇女で、父の弟(つまり叔父)大海人皇子(オオアマノミコ)の妻となります。
 
今の日本では法律上認められない近親婚ですが、当時(飛鳥時代)は、よくあることでした。
 
有力な家系は、権力や富の流出を防ぐために、「近親婚は有益」と考えられていたようです。
 
弟の大友皇子と夫との戦い「壬申の乱」が起こったときには、夫につき、大海人皇子は次の天皇・天武天皇になります。
 
その後、後継ぎの息子・草壁皇子は、若くして亡くなってしまい、彼女ば自ら持統天皇となって、孫の文武天皇に皇位をつなぎます。
 
持統天皇は、万葉集の歌人としても有名な人物なのですよ。
 
 
春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の
衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)

 
【覚え方】 春過ぎて衣ほす

 

いつの間にか、春が過ぎて夏がやってきましたね。夏になると真っ白な衣を干すといいますから、あの天の香具山に。
(白い衣を干してあるのが見えている

 

初夏の山の緑と衣の白のコントラストが象徴的ですね~♪
美しい爽やかな歌です。(´▽`*)
 
万葉の歌人は自然と共に生きているので、実際に自分の目で見た自然を詠む歌が多く、それが心情描写にもなっています。
 
「百人一首」全首の詳細はこちらから(´▽`)♪↓

 

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