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こんにちは。
 
今回は「方丈記」を書いた鴨長明についてです。
 
「三大随筆」はしっかり押さえたいですね。
 ↓
枕草子(清少納言)
方丈記(鴨長明)
徒然草(兼好法師)

 
 
私は随筆より戦記が好きで最近「平家物語」を読み返しているのですが、鴨長明が生きた時代はあの「源平の争乱」の時期なのです。
 
 
今から800年ほど前に書かれた随筆です。
 
 
都の文壇(和歌の世界)では、藤原定家が「新古今プロジェクト」を打ち立てていたころですよ。

 
 

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「方丈記」の特徴を簡単に

 

 
鴨長明が生きた時代は、平安末期から鎌倉時代へ移行する源平の合戦が起こった激動の時代でした。
 
 
また、大きな地震や大火などの天災に見舞われその後、飢饉や疫病の流行が起こったたいへん困難な時代だったのです。それは当時の世相にも表れ、人々の間では「末法思想」がブームになりました。
 
 
そんな世情と自らの半生を受けて書かれた鴨長明の「方丈記」には、一貫した「無常観」がただよいます。「無常」というのは「あらゆるものは生まれては滅び、変化していく」という意味の仏教用語です。
 
 
「方丈記」のテーマは「世の中には何ひとつ定まったものはなく、すべてのものは移りゆく。そのなかでいかに生きればよいか」ということです。
 
 
「方丈記」が完成した1212は、鴨長明の最晩年の58歳ごろでした。

 
 

名家に生まれたものの18歳で挫折

 

 
鴨長明(かものちょうめい)は、1155年、下鴨神社の禰宜(ねぎ)の息子として生まれました。
 
 
由緒正しい神社の跡取りで7歳で貴族の位をもらった(たいてい10代になってからもらう)という、ものすごいお金持ちのぼんぼんだったのです。
 
 
でも、長明が18歳のとき、父がなくなってしまいました。この時代の上流社会では、「後ろ盾がいなくなる」=「失脚」を意味することが多いです。
 
 
「枕草子」で清少納言の慕っていた中宮・定子が没落したのも、父が亡くなったからでした。
 
 
そういう仕組みの社会だったのです。

 
 

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30歳までニート生活?

 

 
絶望した鴨長明は自殺も考えましたが、それは思いとどまります。
 
 
そして、失意のまま祖母の家(豪邸)に転がり込み、30歳までニートを続けていたと伝わります。その後、自分の家を建て独立しましたが定職に就くことはできませんでした。
 
 
和歌の才はというと、33歳のとき「千載和歌集」に和歌が1首入選した程度でした。
 
 
なかなか世間に認められることはなかったのですが、それでも長明はずっと師匠に付いて「和歌」と「琵琶」の腕を磨いていったのです。
 
 
鴨長明は、プライドが高すぎ和歌や琵琶にこだわって仕事を選んだから、ずっと定職に就けなかったという意見もあります。
 
 
でも、もしかしたらプライドが高いというのは生まれから見られる偏見で、実はとても繊細で人付き合いが下手な人だったのかもしれません。

 
 

46歳にして和歌の仕事に就けた

 

 
鴨長明は46歳のとき、はじめて「和歌所」(和歌の選定所)で「寄人」として就職できました。このときの彼の働きぶりは、ものすごく真面目でよかったそうですよ。上司の源家長が、はっきり書き残しています。
 
 
「寄人」というのは非正規のような職ですが、「和歌」にたずさわる仕事につけたので、相当うれしかったのでしょう。
 
 
当時、和歌の世界では、藤原定家が提唱した新しいスタイル「新古今流」の全盛期でした。
 
 
鴨長明は、定家のようなエリート宮廷歌人ではありません。「今の最新流行の和歌はこんな感じなのかー」と思ったでしょう。そして、彼は、そのニュースタイル「新古今流」の和歌を詠むようになりました。
 
 
つまり、「自己流をつらぬくぜ」というプライドの高い偏屈おやじだったのではなく、しっかり空気を読んだ対応をしていた人だと分かるのでした。
 
 
鴨長明の和歌は、その後「新古今集」に10首入選しています。

 
 

チャンス到来!と思いきや?

 

 
鴨長明が50歳のとき、朗報が舞い込んできました。下鴨神社の摂社の1つ河合社の神職のポストが空いたというのです。
 
 
彼の「和歌所」での真面目な働きぶりも評価され、後鳥羽院からの推薦(←強力なコネ)が出ました。
 
 
「とうとう正職員になれる、しかも、本来自分がなるはずだった神職だ」と、鴨長明はものすごくうれしかったでしょう。
 
 
でも、鴨長明を家から追い出した親類の大反対にあい、神職につくことは後鳥羽院の力をもっても叶えられなかったのでした。就活失敗です。
 
 
気の毒に思った後鳥羽院は「似たような別のポストを新設するよ」と言ってくれたのですが、絶望した長明はそれを拒み和歌所にも顔を出さなくなってしまいました。(引きこもりか?)
 
 
「代わりのポストでも十分じゃん? やっぱりプライド高いから」と、思われそうですね。でも、私は彼はもう貴族社会の人間関係に心底うんざりしてしまったのではないかと思います。
 
 
そうして彼は、都から離れた大原に方丈(四畳半)の終の棲家を建てて、琵琶や和歌をたしなみながら暮らしたのでした。

 
 

再びチャンス到来?

 

 
大原から日野に引っ越しひっそりと「方丈の庵」にこもって暮らしていた長明に、再びチャンスが訪れます。
 
 
鎌倉幕府3代将軍・源実朝が鴨長明に興味を持ち、鎌倉で正社員として採用できるかもしれないという知らせが入ったのです。
 
 
鴨長明は喜び勇んで、はるばる鎌倉まで面接試験を受けに行きました。
 
 
この頃の鴨長明は、50代半ばです。当時の寿命からするともう老人、引退するような歳ですよ。しかも、徒歩で京都から鎌倉まで行きました。
 
 
すごい就活熱だと思いませんか?
 
 
でも、その結果は、「不合格」・・・・・・
またまた、就活失敗です。
 
 
失意の彼は、再び京に戻りました。

 
 

「方丈記」を完成させる

 

 
都の山奥の日野に戻った鴨長明は、住まいの方丈で「方丈記」(1212年)を書き残しました。
 
 
「方丈記」は俗世を離れた自らの閑居(方丈)での生活をつづった無常観あふれる作品です。ちょうと源平合戦の時代で、天災も多かったので、「平家物語」に通じるような世情があったのでしょう。
 
 
彼は62歳で世を去りますが、彼の死後「方丈記」は広く読み伝えられ、現代でも随筆の代表作といわれるものになりました。
 
 
よかったですね。

 
 

鴨長明の簡単な年表


 
・1155年(1歳)
下鴨神社の禰宜の息子として誕生
 
・1156年(2歳)
「保元の乱」勃発
 
・1159年(5歳)
「平治の乱」勃発
 
・1177年(23歳)
安元の大火
 
・1180年(26歳)
治承の辻風(竜巻)
源頼朝挙兵( 
木曽義仲挙兵
「富士川の戦い」
 
・1181年(27歳)
養和の飢饉
平清盛病没
 
・1185年(31歳)
「壇ノ浦の戦い」→平家滅亡
元歴の大地震
 
・1192年(38歳)
源頼朝征夷大将軍に
 
・1212年(58歳)
「方丈記」完成
 
・1216年(62歳)
死没

 
 
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