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こんにちは、このかです。
 
今回は、久しぶりに随筆を取り上げます。
 
「三大随筆」をおさらいしておくと、こちらです。
 ↓
枕草子
方丈記
徒然草

 
 
私は圧倒的に『枕草子』が好きです。そして、後の2作品は鎌倉時代のおじさんの作品だなーという感じで、そんなに興味ありませんでした。
 
 
最近、『平家物語』を読み返してるんですけど、鴨長明が生きたのは、あの源平の争乱の時代なんですね。都の文壇(和歌の世界)では、藤原定家が新古今プロジェクトを打ち立てていたころですよ。
 
 
そう思うと、かなり興味がでてきた鴨長明・・・
 
 
そしてもう1つ、彼は、私の大好きな西行法師と比べられる(似てるといわれる)ことがあるのですが、それについての反論などをお伝えしたいと思います。

 
 

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名家に生まれたものの18歳で挫折

 

 
鴨長明(かものちょうめい)は、1155年、下鴨神社の禰宜(1番えらい人)の息子として生まれました。
 
 
これはもう、学校で習うのでよく知られていますが、7歳で貴族の位をもらった(たいてい10代になってからもらう)という、ものすごいお金持ちのぼんぼんだったわけです。
 
 
でも、長明が18歳のとき、父が他界して後ろ盾を失ってしまいます。
この時代、貴族社会では、後ろ盾がいない=「失脚」となることが多いです。『枕草子』で清少納言の慕っていた中宮・定子が没落したのも、父が亡くなったからでした。
 
 
そういう仕組みの社会だったのです。

 
 

30歳までニート生活?

 

 
絶望した鴨長明は、自殺も考えましたが、それは思いとどまります。
 
 
そして、失意のまま祖母宅に転がり込み、30歳までニートを続けていたと、よくいわれます。その後、自分の家を建て独立しましたが、定職にはつけませんでした。
 
 
33歳のとき『千載和歌集』に、和歌が1首、入選した程度です。なかなか世間に認められることはなかったのですが、それでも長明は、ずっと師匠に付いて和歌と琵琶の腕は磨いていたのです。
 
 
長明は、プライド高すぎて和歌や琵琶にこだわって、仕事を選んだからずっとニートだったという意見もあります。
 
 
でも、私は、そうでもないと思うのですよ。プライド高いというのは、生家から見られる偏見で、実は、とても繊細で人付き合いが下手な人だったのではないかと思います。
 
 
そして、彼はずっと、就職したかったと思うのです。
ニートでいたかったわけではありません。

 
 

46歳にして和歌の仕事ゲット!

 

 
その証拠に、46歳のとき、はじめて「和歌所」(和歌の選定所)で「寄人」として就職できたときの働きぶりは、めちゃくちゃ真面目でよかったそうです。上司の源家長が、そう書き残しています。
 
 
「寄人」は非正規のような職ですが、「和歌」にたずさわる仕事につけて、相当うれしかったのでしょう。
 
 
当時の和歌の世界は、藤原定家が提唱した新しいスタイル「新古今流」の全盛期でした。
 
 
鴨長明は、定家のようなエリート宮廷歌人ではありません。「今の最新流行の和歌はこんな感じなのか~」と思ったでしょう。そして、彼は、そのニュースタイル「新古今流」の和歌を、作るようになりました。
 
 
つまり、その時の彼は、オレ流をつらぬくぜというようなプライドの高い偏屈おやじではなく、しっかり空気を読んだ対応をしているのです。
 
 
そのおかげか、「新古今集」に、鴨長明の和歌は10首入選しています。

 
 

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チャンス到来!と思いきや?

 

 
鴨長明が50歳のとき、朗報が舞い込んできます。
下鴨神社の摂社の1つ河合社の神職のポストが空いたというのです。
 
 
彼の「和歌所」での真面目な働きぶりも評価され、後鳥羽院からの推薦(←めっちゃ強力なコネ)が出ました。
 
 
とうとう正職員になれる、しかも、本来自分がなるはずだった神職!
 
 
鴨長明は、めちゃくちゃうれしかったでしょう。
 
 
でも、それは長明を家から追い出した勢力の大反対にあい、後鳥羽院の力をもっても叶えられる事はありませんでした。就活失敗です。
 
 
気の毒に思った後鳥羽院は、「似たような別のポストを新設するよ」と言ってくれましたが、またまた絶望した長明は、それを拒み、和歌所にも顔を出さなくなってしまいました。
 
 
「代わりのポストでも十分じゃん? やっぱりプライド高いから」と思われそうですね。でも、私は、彼はもう貴族社会の人間関係に、心底うんざりしてしまったんじゃないかなと思うのです。
 
 
そうして彼は、都から離れた大原に方丈(四畳半)の終の棲家を建てて、琵琶や和歌をたしなみながら暮らしたのでした。

 
 

再びチャンス到来?

 

 
大原から、そのまた奥の日野に引っ越し、ひっそりと方丈の庵にこもって暮らしていた長明に、再びチャンスが訪れます。
 
 
鎌倉幕府3代将軍・源実朝が鴨長明に興味を持ち、鎌倉で正社員として採用できるかもしれないという知らせが入ったのです。
 
 
「もう世捨て人になったから、いいんじゃないの?」と思いきや、鴨長明は、喜び勇んで、はるばる鎌倉まで面接試験を受けに行ったのでした。
 
 
この頃の鴨長明は、50代半ばです。当時の寿命からするともう老人、引退するような歳ですよ。しかも、徒歩で京都から鎌倉まで行きました。
 
 
すごい就活熱だと思いませんか?
 
 
でも、その結果は、「不合格」・・・・・・
またまた、就活失敗です。
 
 
失意の彼は、再び京に戻りました。

 
 

『方丈記』を完成させる

 

 
都の山奥の日野に戻った鴨長明は、住まいの方丈で『方丈記』(1212年)を書き残しました。
 
 
『方丈記』は、俗世を離れた自らの閑居(方丈)での生活をつづった、無常観あふれる作品です。ちょうと源平合戦の時代だったので、『平家物語』に通じるような、世情もあったのでしょう。
 
 
彼は62歳で世を去りますが、彼の死後『方丈記』は広く読み伝えられ、現代でも随筆の代表作といわれるものになりました。
 
 
「よかったね、長明さん。」と言いたいです。

 
 

鴨長明と西行法師

 

 
鴨長明は、放浪の歌人・西行と同年代に生きた人です。
 
 
どちらも田舎に簡素な庵を築き、和歌を詠んだ風流人と思われがちですが、その生き方はまったく違うと私は思います。
 
 
西行法師は、もともと「北面の武士」という超エリート職にいきなり採用された文武両道のイケメン武人でした。コミュニケーション力も高いです。
 
 
そして、彼は23歳でエリート職と妻子を捨てて出家し、還俗したり定職に就きたいなど考えませんでした。(「煩悩なかなか消えないよ、俗世が恋しいよ~」というめめしい和歌は、いっぱい残してますけど・・・)
 
 
また、西行は元々家柄がよく、藤原定家や後鳥羽院などから、すごく高い評価を受けていたのです。「新古今集」に最多の94首の和歌が収められていますよ。
 
 
50歳を過ぎても、就職したがっていた鴨長明とは、全然違うのです。
 
 
不器用で生真面目、人にうっとおしがられる鴨長明。
 
 
社会人になりたかった、世間に認められたかったという彼の想いが最後に行きついたのが「無常観」だったのかと思うと、すごく切なく感じるのでした。
 
 
そして、もう一度、きちんと読み返そう『方丈記』と、思うのでした。
 
 
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