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こんにちは、このかです。
 
 
松尾芭蕉について書いた記事を、こちらのページにまとめました。
 
「奥の細道」は、長い日程の紀行文なので、俳句もたくさん載っています。
それらの記事は、これからも増やしていく予定です。

 
 

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松尾芭蕉の俳句20選

 

 
松尾芭蕉の代表的な俳句を、20句取り上げました。
 
どこかで聞いたことがあるなあと思えるものが多いと思いますよ。
 
 
 
松尾芭蕉の俳句~静けさや・五月雨を~代表作20句を紹介

 
 

芭蕉の代表的な「名月」の俳句

 

 
松尾芭蕉は、たくさん「名月」の俳句を作っています。
 
中でもよく取り上げられ、解釈の幅が広く、芭蕉らしい「寂び」の雰囲気が出ているこの俳句を取り上げました。↓
 
 
松尾芭蕉の「名月」の俳句!「名月や池をめぐりて夜もすがら」

 
 

松尾芭蕉の5つの紀行文

 

 
松尾芭蕉は、大きく5つの紀行文を残しています。
 
『野ざらし紀行』、『鹿島詣』、『笈の小文』(おいのこぶみ)、『更級紀行』、『奥の細道』です。
 
それらが作られた年や作風、同行者、主な俳句についてお伝えしています。
 
 
松尾芭蕉の5つの紀行文を紹介!「奥の細道」は芭蕉の旅の集大成?

 
 

松尾芭蕉・公儀隠密説について

 

 
松尾芭蕉は伊賀の忍者で、公儀隠密だったというのは、昔から根強くささやかれている説です。
 
伊賀出身だったことなど、そうではないかと思われる点があるので、うわさされるのでした。それについての、私の見解をまとめました。
 
 
松尾芭蕉の都市伝説・伊賀忍者で公儀隠密だった?

 
 

松尾芭蕉「奥の細道」と西行法師

 

 
松尾芭蕉は、旅に生きた先人たちを尊敬していました。中でも、平安末期から鎌倉初期に活躍した西行法師は、「奥の細道」の中でも何度か出てきます
 
西行は、奥州藤原氏の藤原秀衡と親戚で懇意でもあったので、2度平泉を訪れています。2度目の訪問は、奥州藤原氏が源頼朝に追われた義経をかくまっていた時期で、それからしばらくして秀衡は病死、奥州藤原氏は滅ぼされてしまいます。
 
芭蕉の東北への旅は、この地と縁の深い西行を想いながらの旅だったとわいれます。
 
 
松尾芭蕉の「奥の細道」東北の旅は、西行法師の500回忌巡礼だった!

 
 

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「奥の細道」の同行者・河合曾良

 

 
「奥の細道」の旅は、河合曾良という同行者との二人旅でした。
 
でも、曾良は途中で体調不良でリタイアしてしまったのです。
そのときの芭蕉の心細さを詠んだ句が残っています。
 
 
松尾芭蕉の旅の道連れ・河合曾良は、○○でリタイアしたよ!

 
 

「曾良旅日記」は貴重な文献

 

 
河合曾良は、とても几帳面で優秀なマネージャー兼、旅のコーディネーターでした。
 
彼がこの旅の道中に書いた「曾良旅日記」という記録は、「奥の細道」よりも正確で、資料としてたいへん価値のあるものなんですよ。
 
「奥の細道」は作品として面白いように順番を入れ替えたり、フィクションを加えたりしています。曾良の日記は、事実をそのまま書いていることが多く、比べることでより深くこの旅について理解できるのでした。
 
 
松尾芭蕉「奥の細道」同行した曾良・「曾良旅日記」は貴重文献

 
 

「奥の細道」那須の殺生石

 

 
「奥の細道」の那須の「殺生石」に行ったときの俳句です。
 
「殺生石」には、平安時代の玉藻の前という美女の伝説が残っています。その美女は、実は「九尾の狐」で、この地で退治され殺生石と化したのだそうですよ。
 
 
松尾芭蕉「奥の細道」の殺生石は今もあるの?那須の「九尾の狐伝説」

 
 

「奥の細道」那須の遊行柳

 

 
芭蕉は、「殺生石」を見たあと、「遊行柳」(ゆぎょうやなぎ」という柳を見に行っています。
 
「殺生石」も「遊行柳」も「謡曲」の題材になっているんですよ。
そして、その謡曲「遊行柳」には、西行法師が登場するのでした。
 
 
松尾芭蕉「奥の細道」那須の「遊行柳」を見て西行を想った俳句

 
 

「奥の細道」終着点は岐阜の大垣

 

 
松尾芭蕉の「奥の細道」の旅は、岐阜県の大垣で終わります。
多くの弟子や知人が集まって、あたたかく出迎えられられました。
 
その終着の地で詠んだ俳句を、紹介します。
 
 
松尾芭蕉「奥の細道」の旅・終着「大垣」の俳句はハマグリ

 
 
 

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