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こんにちは、このかです♪
 
放浪の俳人・松尾芭蕉。
 
後世、俳句の神様のようにも思われているこの人には、まことしやかにささやかれる都市伝説があります。
 
それが、伊賀の忍者で幕府の隠密だったという説です。
 
ウソーっ!とも思えますが、もっともらしい根拠もあるにはあるのでした。
 
真実は、今となっては藪の中です。
私、個人的には、おもしろいけどちょっと違うんじゃないかなーと思うのですが、あなたはどう思われるでしょう?

 

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松雄芭蕉が「隠密」といわれる5つの理由

 

 
松尾芭蕉は、河合曾良(かわいそら)という門弟を伴って、江戸から東北・北陸地方を巡り岐阜の大垣まで旅をし、紀行文を残しました。
それが、『奥の細道』です。
 
彼は元禄2年(1689年)3月27日に奥州へ向けて、江戸から旅立ちました。その後、北陸路を経て9月には美濃(岐阜県)の大垣にたどり着きます。
 
この旅が、実は幕府の隠密活動で、仙台伊達藩の情報を探索することが目的だったという説があるのです。

 

(1)そもそも俳諧師は怪しいのだ

 
 
昔から歌人俳人の中には、諸国を旅する人たちが多くいました。
 
その走りは、平安時代の能因法師で、彼は全国各地をめぐって歌を詠み「能因の歌枕」を残しています。西行法師も、諸国を巡り、奥州藤原氏の藤原秀衡に会うため、2回も東北地方を訪れています。芭蕉は、西行法師の生き方に憧れていたともいわれますよ。
 
江戸時代の歌人や連歌師(俳諧師)の中には、各地を渡り歩きながら、その地の地方役人が私腹を肥やしたりしていないか調べる諜報活動をした人たちがいたのです。
 
また、全国各地を回って不自然でない僧侶や山伏、行商人、旅芸人などにも、そういう人たちがいました。
 
つまり、「旅する俳諧師」というだけで、隠密だったのかもなーと疑われるのでした。

 

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(2)芭蕉が忍者の里・伊賀出身だったから

 
 
「旅する俳諧師」は隠密かもしれないという先入観がある上に、松尾芭蕉の出生地が伊賀上野ということで、ますます信憑性が高まります。
 
伊賀は、今もよく知られている「忍者の里」ですね。
芭蕉はそこの無足人と呼ばれた郷士の農家・松尾与左衛門の次男として生まれました。先祖の多くは、忍術を体得した伊賀の地侍です。
 
芭蕉は、その地で藤堂良忠に仕えていました。
藤堂家は、あの有名な伊賀忍者・服部半蔵の遠縁です。
 
う~ん、ますます松尾芭蕉は忍者なんじゃないの?と思われそう・・・。
 
芭蕉は、藤堂良忠とともに俳諧を習いますが、良忠は、若くして病気で亡くなりました。その後、芭蕉は、藤堂家を出て、江戸に行き俳階の道へ進みます。
 
いろいろ空想できそうですが、これを根拠にするのは短絡的かなと思います。

 

(3)旅の移動速度が速すぎるから

 

 
松尾芭蕉が旅に出たときの移動速度は、記録によると、年齢の割にめちゃくちゃ速かったのだそうです。
 
『奥の細道』の旅程の距離と時間から単純に速度を計算すると、1日平均45km(10数里)以上歩いたことになるのだとか。道中は、険しい山道も多く、当時40代半ばの芭蕉にしては、異常な速さなのです。
 
それが根拠の1つにされているのですが、どうなんでしょうね。
これについては、そんな単純計算で推測するのは、ちょっと乱暴じゃないかと思います。
 
芭蕉は、当時、すでに人気の俳諧師だったので、各地に援助してくれる有力者がいました。飛脚や渡り船の世話をしてくれたパトロンがいたとしても、おかしくないと思います。

 

(4)関所をスルスル通り抜けているから

 
 
江戸時代、国境におかれた「関所」を通るのは、非常に困難でした。でも、芭蕉は、どの関所もスルスルと容易に通り抜けることができたようです。
 
そのことから、強力な「後ろ盾」がいたのではと推測されるのです。
これは、確かにそうだなと思えますね。

 

(5)滞在期間の謎

 
松尾芭蕉は河合曾良という門弟を東北への旅の道連れにしています。
 
『奥の細道』の旅程は、曾良も『曾良旅日記』に記しているのですが、80カ所以上も記述の違いが見られるのです。それだけでも、なんだか怪しいですね。中でも日にちの食い違いが目立っていて、そもそも江戸を出発した日の記述が違います。
 
出発日の記述が違うというのは、どういうこと?って思いませんか。
芭蕉は3月27日と書いているのに、曾良の日記では3月20日となっているのです。
 
どちらかが意図的に変えたと考えるのが自然です。
 
また、文学的価値のある松島のような場所には、1泊しかしていないのに、そんなに意味がなさそうな、どおってことのない場所に2週間近く滞在したりしているのです。
 
もしかしたら、現代人と違って当時の人は、めっちゃテキトーで気の向くままに動く人たちだったのかもしれませんが・・・・。

 

松尾芭蕉より河合曾良が怪しいと思うよ

 

 
上の画像は、芭蕉と曾良の像です。
 
松尾芭蕉が、旅費の捻出のために「隠密活動も兼ねた旅」をしたというのは、あり得る話だと思います。
 
でも、芭蕉ではなく、同行者の河合曾良が隠密だったのではないかという説もささやかれているのですよ。
 
出発する直前に同行者が路通から曾良に変わったことや、旅をしているときの金銭の管理を、曾良がしていたことなどから、そう推測されています。曾良は水戸徳川家とつながりがあったので、もしも隠密活動をしていたなら、援助があったはずです。
 
芭蕉が東北へ紀行すると聞いて、隠密の曾良が、芭蕉に頼んで同行したというのは、十分考えられるなと思うのです。
 
目的は東北諸藩、特に仙台伊達藩への諜報活動でしょう。
 
曾良が怪しいと思う大きな根拠は、彼がこの旅から約20年後に、幕府の諸国巡見師随員に選ばれていることです。
 
巡見師というのは、江戸幕府が諸国の大名や旗本を監視し、情勢を調査するために派遣した「上使」のことです。並みの俳諧師が任命されるものではありません。
 
でも、それもよく分かりませんよ。
 
 
松尾芭蕉は、面白かっただけの俳諧を、芸術の域に引き上げたアーティストです。たいへん気難しい人だったとも伝わります。そういう人が、そんなめんどくさい役目を引き受けるでしょうか。
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これは、私の意見ですが、他の根拠を考え合わせても、芭蕉自身が隠密だったというのは、疑わしいと思います。
 
 
松尾芭蕉については、これからも調べるので、今後、意見が変わることがあったら、またお伝えしますね。