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『更級日記』の作者が焦がれてやまなかった『源氏物語』
千年以上読み続けられる、本当に素晴らしい長編大作です!
 
 
紫式部は、明るく社交的な清少納言とよく比べられ、陰気で内向的で言いたいことを言えない人だったといわれます。
 
 
そういう彼女の人柄は、『紫式部日記』や、当時の他の人の書き残したものから少し伺えます。
 
 
今回は、資料と『紫式部日記』から垣間見える、紫式部の性格について、想像を交えてお伝えします。

 

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同人誌が大ベストセラーに!

 

 
紫式部は、幼い頃に母親が亡くなり、漢学者の父のもとで育てられました。
 
 
学者の家系なので、厳しく教育される兄弟を横目で見ながら、女子の紫式部のほうが先に漢詩を暗記したという逸話が残る秀才です。
 
 
彼女は、物語が大好きな文学少女でした。20代で結婚しますが夫に先立たれ、物語好きの趣味の合う友達と一緒に作品を書いては、見せ合って楽しんでいたそうです。
 
 
そのとき書き始めたのが、『源氏物語』です。
 
 
今でいう文学サークルみたいですね。
 
彼女の書いた物語はあまりにおもしろく、友達の輪を超えて次第に評判になっていきました。そして、それが当時の権力者・藤原道長の目に留まったのです。
 
 
そして、彼女は中宮付きの女官にスカウトされ、ベストセラー作家への道を歩むことになったのでした。

 

一条天皇と二人の妻

 

 
当時の宮廷は、少し面倒な状態になっていました。
 
 
一条天皇に、「皇后・定子」「中宮・彰子」という2人の正妻が並び立つ、異例の事態が起こっていたのです。
 
 
はじめは、時の最高権力者・関白藤原道隆の娘・定子が中宮として入内します。しかし、その後、道隆があっけなく病で亡くなり権力の座が弟の道長に移ったのでした。
 
 
そうすると、当然、確固たる権力を持つために、道長は自分の娘・彰子の入内をすすめます。(定子と彰子は10歳以上年の離れた従姉妹)
 
 
一条天皇は定子ととても夫婦仲が良く、彼女をたいへん愛していましたが、権力者・道長を敵に回すわけにはいかず、彰子も妻に迎える決心をしました。
 
 
中宮定子は一条天皇より少し年上の、社交的で才色兼備の素晴らしい女性でした。
 
 
そして、「定子のサロン」は、才女の集う華やかなセレブサロンだったのです。そのサロンの中心にいたのが、清少納言でした。
 
 
父の藤原道隆が亡くなって没落した後も、一条天皇は定子を大切にしました。しかし、彼女は出産が原因で、24歳で亡くなってしまいます。
 
 
最愛の妻を亡くした一条天皇は、彰子の元にあまり顔を出しませんでした。
 
 
彰子は入内時はわずか12歳、一条天皇より10歳ほど年下で、気の利いた話のできない内気な少女でした。定子とは対照的な従姉妹同士だったようです。
 
 
彰子父・藤原道長は、なんとかして彰子のサロンを、かつての定子サロンのように華やいだものにし、一条天皇の気を引きたいと考えました。
 
 
そして、彰子の家庭教師を兼ねた才女を募りました。
 
 
そうして、紫式部が道長の目に留まり、彼女は乗り気ではなかったようですが、道長と父の圧力で宮仕えを決めました。

 

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初出仕で総無視されてショックを受ける

 

 
道長の推薦という鳴り物入りで宮仕えをし始めた紫式部ですが、周りの女房たちから冷たい塩対応の洗礼を受けます。
 
 
「よろしくお願いします」といっても無視、「仲良くしてください」と手紙を書いても返信はあやふやなまま・・・
 
 
どうやら紫式部がものすごいインテリだといううわさが宮中に広まっていて、みんな敬遠し遠巻きに見ていたようなのでした。
 
 
当時の女官は、和歌や管弦などに秀でていても、「漢詩」の素養は必要ありませんでした。
 
 
紫式部は「漢詩」をマスターしていたので、彰子の漢詩の家庭教師としても望まれたのですが、当時、漢詩の習得を必要とされたのは、帝の后・中宮ぐらいでした。
 
 
『源氏物語』を読んだ一条天皇が、「素晴らしい。きっと彼女は(漢文で書かれた)日本書紀も、読んでいるのだろう。」と言うと、やっかみから女房たちにいろいろ言いふらされ、「日本紀の御局」(にほんぎのみつぼね)などという、ありがたくないあだ名をつけられてしまいます。
 
 
平安貴族の女性は身内以外めったに顔を合わさず、屋敷の奥で生活していました。それが宮仕えをすることで、いきなり中央官庁のキャリア組のような生活環境に変わったのです。
 
 
心的ストレスが、ぐわわわわわーとのしかかり、とうとう彼女は引きこもってしまいました。

 
 

実家に引きこもって出仕拒否

 

 
実家に帰った紫式部は、かなり落ち着いたのか『源氏物語』の執筆を続けました。
 
 
文筆活動を続けるうちに心が穏やかになっていき、半年足らずの引きこもり生活の後、彼女は職場復帰を決心しました。
 
 
道長からの催促か、父親の圧力か、その両方かはよくわかりませんが、長期間休んでも本人がその気になればすんなり復帰できたようです。もともとゆるい体制だったのかもしれませんが……。
 
 
でも、頭の良い紫式部のことです。
 
 
今度は、しっかり対策を立てて臨んだようですよ。

 

出来ない子を演じて復活!?

 

 
宮仕えに戻ったとき、彼女は「できない子」を演じて、下手に出て人に物を聞くようにしたのです。
 
 
「これは、何のことですの? 教えてくださいませ。」
「さあ、難しくて、私にはわかりかねますわ。」
 
 
こんな感じでしょうか。
 
 
もともとつんけんしたインテリ女だと思われていたので、この作戦は功を奏します。見下されて歯がゆい思いもしましたが、だんだん嫌味を言う人は減っていきました。
 
 
紫式部は、人見知りで自分から話しかけられず表情も固まりがちだったので、お高くとまっていると誤解されていたのでしょう。
 
 
彼女は内気でしたが人嫌いではなく、時間をかけて打ち解けた気心の知れた同僚とは、その後、結構楽しく付きあえるようになったようです。
 
 
そして、彰子や道長には、特別扱いされていました。
 
 
『源氏物語』のような超大作を書くには、膨大な量の紙と筆と墨が必要です。また、昔の文献など資料もたくさん必要です。
 
 
当時、紙(和紙)はたいへんな高級品でした。
 
 
それを、すべてバックアップしたのが藤原道長です。
 
 
そして、家庭教師をしていた彰子から「私と式部とは、誰よりもずっと仲良しになりましたわね。」という言葉をかけられるまでになります。
 
 
紫式部にとって、彰子は尊敬の対象であり、娘か年の離れた妹のような大切な存在になっていったようです。
 

 

おわりに


 
『紫式部日記』を読むと、紫式部はかなりのネガティブ思考だったと分かります。でも、だからこそ彼女は、自分の内面世界を深め、物語の創作に没頭できたのでしょう。
 
 
日記には宮中であった嫌な事や同僚の悪口をつらつら書いて、直接会ったことのない清少納言のこともかなり辛辣に批判しています。大人しいけれど才女でしたから、言いたいことは日記に書き残したのでしょうか。
 
 
同僚だったらちょっと怖いです。
 
 
しかし、彼女がそんな内向型の女性だったからこそ、この壮大な物語が完成したのだと思います。
 
 
『源氏物語』の登場人物は、非の打ちどころのない幸せをつかむ人は登場しません。紫式部は、スーパーヒーロー光源氏にさえたくさんの苦悩を経験させました。
 
 
そういう物語の深みのあるところに、人は惹かれるのだと思います。
 
 
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