この記事を読むのに必要な時間は約 8 分です。


 
「もののけ姫」は、私にとってジブリ作品の中でかなり好きな作品で、もっともスッキリしない作品でもあります。
 
 
大きく伝えたいことはわかるのだけれど、一つずつ突き詰めて考えると、なんだかよくわからんなーとなります。
 
 
特に最後が分かりにくい。
都市伝説が多いのも、そのせいでしょう。
 
 
「シシ神様は死んでしまった」というフレーズが独り歩きしていますね。
 
 
これは、サンがはっきり言った言葉なので、印象に残るのも当然です。
でも、アシタカが、その後、否定していますね。
 
 
「シシ神は死にはしないよ、生命そのものだから・・・。」
 
 
でも、首は返したけれど、ジコ坊は、朝日を浴びるとデイダラボッチは死ぬとも言ってるし・・・。
 
 
やっぱり、スッキリしません。
 
 
それで今回は、シシ神のその後と他者を搾取してしか生きていけない人の哀しみにポイントを置いてお話しします。

 

スポンサーリンク

シシ神は最後にどうなった?

 

 
まず、シシ神は、犬神(モロ)や乙事主(おっことぬし)のような、神様ではありません。
 
シシ神=自然の営みそのもの
       ↑↑↑
この話では、このようにとらえられています。
この深い照葉樹林の生命の集合エネルギー体がシシ神なのです。
 
 
ですから、生も死も超えたものといえるのですね。
 
 
もともと、一つの生命体ではないから、首を取られても死ぬことはありません。
シシ神を「生命エネルギー体」と捉えると、理解できる部分が増えます。
 
 
ただ、司令器官(?)の首を取られたため、それを取り戻そうとエネルギーが噴き出し、暴走したのでしょう。
 
 
首はアシタカとサンの手で返されたけれど、時すでに遅しで、デイダラボッチ→シシ神という流れに戻れず、朝日を浴びて、エネルギーの結束がはじかれてしまいました。
 
 
その後は、見ての通り、今までの昼はシシ神、夜はデイダラボッチという形態が失われ、自然の緑の生命体と形を変えます。それで、辺り一面が、草原になったのです。
 
 
形は変わったけれど、完全に死んだわけではないから、最後にシシ神の池に、コダマが現れたのだと思います。

 
 

もののけ姫のその後の世界は?

 

 
もののけ姫の世界は、その後どうなったでしょう?
 
 
それぞれのラスト近くの言葉から考えてみます。

 
 

スポンサーリンク

自然(シシ神)サイド

 
「シシ神の森」・生と死を司る偉大な神の宿る照葉樹林は、失われました。
ただ、完全に焦土と化したのではなく、緑が現れ草原になっています。
 
森が破壊されて、森林のサイクルでいう幼少期の草原となってしまったのです。
それは、もう「原生林」とはいえず、「里山」(人と共存するきれいな自然)の姿となりました。
 
 
もう神の宿る場所でなくなり、以前、乙事主(おっことぬし)が言ったように、そこに住む動物たちは小さくなり、ただ人に狩られる肉(動物)として存在することになるのでしょう。イノシシたちは、壊滅しましたしね。

 
 

人間サイド

 
エボシ御前は、もう一度やり直そうといいますが、この場所に以前のようなタタラ場を作るのは、不可能ですね。
 
 
なぜなら製鉄には、燃料となる膨大な樹木ときれいな水が、必要だからです。つまり、タタラの集落を構えるための必要な立地条件は、何より樹木と水の豊かな地であることなのです。
 
 
なので、エボシがどんな集落を作ろうとしてるのかなあ?と疑問に思います。
 
 
宮崎監督曰く、「エボシは革命家」なので、なんとかするのでしょうか?
 
 
でも、土壌を守っているのは森林ですよ。裸山になると、ちょっとした大雨で災害に見舞われます。気をつけなければいけませんね。
 
 
ちなみに、この物語の中のエボシ御前は、「近代産業主義思想」の象徴でしょうね。
 
 
この時代にこんな考え方ができたのって、もう少し後で出てくる織田信長ぐらいじゃないでしょうか。革新的な人です。

 
 

アシタカとサン


 
アシタカはタタラの集落の人々と共に暮らし、自然の中で暮らすサンに、ちょくちょく会いに行くって感じなのでしょう。
 
 
うまくいけば、いずれ一緒に暮らすのか、通い婚か・・・?
 
 
この2人は、「人間と自然の共存」の象徴ですね。

 
 

生きることは、他の命を搾取すること

 

 
この話がすっきりしないのは、問題が何も解決していないからです。
 
 
製作側は、問題提起はしているのに、解決策を出していません。
これは、わざと観客に考えさせているというより、答えを提示できないのだと思います。
 
 
宮崎駿監督は、インタビューで、「もののけ姫」は、「人間が今までしてきたことを映像化したに過ぎない」と言っています。
 
 
そして、「人間はドブ川にわくユスリカと同じだ」とも。
 
 
人間だけでなく、動物が生きるということは、他の動植物の命を搾取することです。
 
 
この食物連鎖こそ、自然の営みであって、そこから逃れることはできません。
 
 
それを哀しいと感じると、行き場を失ってしまいます。
 
 
そう思うと、宮沢賢治的発想だなあと、私は思うのです。
 
 
「よだかの星」のよだかは、鳥である自分がたくさんの虫の命を奪うことに憤りを感じます。
 
 
でも、仕方のない事とそれを受け入れなければ、生きていくことはできません。
できなければ、よだかのように滅びるのです。
 
 
そこで、あのキャッチフレーズが生きてくるのかなーと思います。

 
 
「生きろ。」
 
 
ああ、やっぱり、もやもやの残るお話なのでした。
 
 
【関連記事】
  ↓↓↓